賽の河原と“石を積む”ということ

東北学

 今回は赤坂憲雄先生の『東北学/忘れられた東北』と自身の体験に基づいて、「石を積む」ということについて考えを巡らせて行きたいと思っています。

賽の河原について

 賽の河原とは、人が死んであの世へ行く途中にある三途の川の手前にある川原です。親よりも先に死んでしまった子は賽の河原で石を積まなければいけないという決まりが仏教にあるそうです。

仏教の賽の河原―「賽の河原地蔵和讃」を参考に―

帰命頂礼世の中の定め難きは無常なり。
親に先立つ有様に諸事のあわれをとどめたり。

一つや二つや三つや四つ十よりうちの幼子が
母の乳房を放れては賽の河原に集まりて
昼の三時の間には大石運びて塚につく。
夜の三時の間には小石を拾いて塔を積む。

一重積んでは父の為
二重積んでは母の為
三重積んでは西を向き
しきみほどなる手を合わせ郷里の兄弟わがためと
あらいたわしや幼子は泣く泣く石を運ぶなり。

手足は石に擦れただれ
指より出づる血の滴身うちを朱に染めなして 
父上恋し母恋しと
ただ父母の事ばかりいうてはそのまま打ち伏して
さも苦しげに歎くなり。

あら怖しや獄卒が鏡照る日のまなこにて
幼き者をにらみつけ汝らみなが積む塔は
ゆがみがちにて見苦しし
かくては功徳になり難しとくとくこれを積直し
成仏願えと叱りつつ鉄のしもとを振りあげて
塔を残らず打散らす。

あらいたわしや幼子はまた打ち伏して泣き叫び
呵責にひまぞなかりける。

罪は我人あるなれどことに子供の罪科は
母の胎内十月のうち苦痛さまざま生まれ出で
三年五年七年をわずか一朝先立ちて、
父母に歎きをかくる事第一重き罪ぞかし。

母の乳房に取りつきて乳の出でざるその時はせまりて胸を打ち叩く
母はこれを忍べどもなどて報いのなかるべき。
胸を叩くその音は奈落の底に鳴り響き 修羅の鼓と聞こゆなり。
父の涙は火の雨となりてその身に降りかかり、
母の涙は氷となりてその身を閉づる歎きこそ
子故の闇の呵責なれ。

かかる罪科あるゆえに
賽の河原に迷い来て長き苦患を受くるとよ。

河原の中に流れあり娑婆にて嘆く父母の
一念とどきて影うつればなう懐しの父母や
飢を救ひてたび給えと乳房慕うて這い寄れば
影はたちまち消え失せて水は炎と燃えあがり
その身を焦して倒れつつ絶え入る事は数知らず。

「賽の河原地蔵和讃」

 これが賽の河原の様子だそうです。親より先に死んだ子は、賽の河原で父の為、母の為と石を積みます。朝晩6時間ずつひたすらに石を積み続けます。石に擦れた手からは血が滴ります。そして、父と母のことを想いその場で泣いてしまうのです。
 するとそこへ、鬼がやってきます。そして、汚くゆがんだ石の塔を見ると鉄の棒で崩してしまうのです。そうして子はいつまでもいつまでも石を積み続け、作っては鬼に壊されるということを繰り返すのです。想像するだけでも、そこはとても極楽ではないということがわかるでしょう。
 これは、親より先にこの世を去り、親を悲しませた親不孝という罪のための罰なのだそうです。

現在に残る賽の河原信仰

 『東北学/忘れられた東北』の二章で、赤坂先生は岩手県遠野市の賽の河原に行った記録が書かれています。賽の河原とは、空想上の話ではなく、実際にも存在するのです。とは言っても、実在する場所としての賽の河原では、本当に死んだ子供が石を積んでいるわけではありません。
 赤坂先生は遠野に暮らしながら郷土の歴史を研究している荻野馨さんと『柳田国男の遠野紀行』の著者である高柳俊郎さんと貞任高原にあるという賽の河原に向かいました。
 賽の河原は草に覆われながらもその原型をとどめていました。供えられた缶ジュースに枯れ花は確かに生きた習俗としての賽の河原でした。しかし、赤坂先生はそこから仏教ではなく、「仏教以前」へと目を向けます。仏教が日本に伝わったのは6世紀と言われていますが、それよりもっともっと前の原始的な信仰の香りがするというのです。
 赤坂先生はもう一つ具体例を挙げています。その名称さえ紹介されていない小さな洞窟だと思うのですが、磐城の海の小さな洞窟で賽の河原を見たときのは安氏が紹介されているのです。そこにもやはり、仏教以前が見え隠れしていたのです。山やそこに流れる川のほとりではなく、海面に近いところに死者を祀る場を設ける。そこには明らかに海上他界観の習俗が埋まっているでしょう。仏教以前には、地域によって山の上を死者の向かう場所とする山上他界観、海の彼方に他界があると考える海上他界観が存在していました。賽の河原は仏教の世界観ですが、各地に残るそういった場所には仏教以外の信仰も混ざっているということでしょう。

石積みとはどのようなものか

登山道にみる石積み

 山登りをしていると、いたるところに小石が積み上げられているのを目にします。これにはどのような意味があるのでしょうか。
 石は古来から様々な用途で使われています。例えば墓石です。墓石は封印の意味や、目印の意味、また、死者への思いも込められているかもしれません。霊園に行くと、死者が生前好きだったと思われるキャラクターがかたどられた墓石など、様々な個性を持った墓石が置かれています。
 登山道の石に話を戻します。少なくともこの場合には、石を積み上げている人は一人ではないでしょう。おそらく登山客が前の人が積んだ石に、近くにある石を積み上げてだんだんと高さが出てくるのでしょう。実際、私も積まれている石を見ると近くにある石をそっと重ねてみたりします。

震災遺構で見た石積み

 私は以前、東日本大震災の被災地を訪問する活動に参加していました。その活動の一環で、石巻市立大川小学校に訪問したときのことです。ご自身の娘さんを津波被害で亡くされた方のお話を聞き、観光バスに戻ろうとしたときに奇妙なものを見つけました。
 もともと学校の門があった場所に、小石が積まれていたのです。語り部の方に石について質問すると、「見学に来た人が自然に積んでいった」と仰っていました。この時、その場所で亡くなったのが小学生だったこともあり、賽の河原の石積みについて思いだしました。
 賽の河原という概念はそれほど多くの人に知れ渡っているのでしょうか。たしかに、世代によっても差があり、個人の趣味によっても大きく変わるところだと思いますが、少なくとも日本国民のほとんどが知っていることではないでしょう。
 それなのになんとなく来た人が石を積んでいく。これは仏教などの宗教は関係ない、死者を弔う気持ちの表れだと思うのです。石を積んだ人は何を想っていたのでしょうか。



他の人を想うこと

 よく、「積んだ石が次に来た時に壊されていなかったら願い事が叶う」などと言われます。子どもの遊びから発祥したものでしょうか。ですが、紹介した登山道の石積みも大川小学校での石積みもそれとは少し性格が違う気がします。
 登山道では他の登山客の無事を、大川小学校では津波被害に遭った小学生・教員の冥福を想う気持ちから石が積まれているのではないでしょうか。
 自分の願い事の為、などという利己的な動機だとはとても考えられないのです。石を積むちう行為には、時として他者を想う気持ちが込めれらているのではないかと思うのです。
 

今後に向けて

 石は硬く、重く、時に美しく、時に恐ろしさも感じる自然な物体です。人はそこから自然の雄大さや、反対に人間の力を学びます。
 神話がなくなり、考古学の分野から始まる歴史の教科書は、旧石器時代=石の時代から始まります。それはもちろん体系的な宗教や信仰がなかった時代です。ですが、いわゆる先史時代でも、大湯の環状列石をはじめ、人々は石に特別な思いを持っていたことがわかっています。
 また今後も石を題材に色々なことを考える機会は出てくると思います。これを読んでくださったあなたも、どこかに出かけたときに石に目を向けると、思わぬ発見があるかもしれません。

参考文献

赤坂憲雄『東北学 忘れられた東北』(講談社)

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