【末の松山】現代に残る災害の記録

東北学

契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山波こさじとは

清原元輔

百人一首に収録されている和歌のひとつ。末の松山はこのほかにも多数の和歌に詠まれる「歌枕」なので、知っている人も多いのではないだろうか。

「あなたと私は堅く約束しましたよね。
お互いに涙で濡れた袖を絞りながら、末の松山を波が超すことが決して無いようにと。
それなのに・・・」

という解釈になる。

実はこの和歌に、古代の地震の記憶が秘められているという。

決して波が越えない末の松山

末の松山は現在も実在する場所である。宮城県の多賀城市にある史跡で、住宅街の中に大きな松の木が立っている。

上にも書いた通り、末の松山は古代から多くの歌人に読まれている歌枕である。
※実際にどれほどの歌人が実際に訪れたのかは定かではないが…

意味としては、「決して波の越えない場所」ということから、「ありえない」ことの比喩として和歌の中で読まれている。

そう、波が越えないのだ。

ところで、この「波」とはただの波ではないというのは薄々お分かりだろう。ここでいう「波」とは「津波」のことだ。

末の松山と波を読んだ和歌は貞観年間の大地震のことを表していたのだ。

貞観の大地震

三陸沖地震については、貞観十一(八六九)年の五月二十六日に「多賀城地震」として記録されている。

「日本三代実録」にはこのように書いてあるという。
地震光とともに大地震が発生し、立っていることもままならなかった。家屋が倒壊し、地割れが起き、多賀城の至るところが破損した。やがて海鳴りが起こったかと思うと津波が押し寄せ、一〇〇〇人程が溺死した。人々はあらゆる財産を失った


この津波によって、仙台平野や名取平野は水没したという。地震の大きさも、津波浸水の規模も二〇一一年の東日本大震災に似ているという。

その当時の津波でも、和歌に出てくる「末の松山」は越えなかった。


近年、新しい地図記号として「自然災害伝承碑」が追加された。これは、自然災害の多いわが国で、被害を受けた先人たちがその記録を残した伝承碑に対して、少しでも関心を持つ人が増えるようにと考案されたものだ。

もともとは「末の松山」も同じように、大津波にも飲まれなかった場所として語り継がれたに違いない。

そして、時が流れる中で意味合いが変わっていったのだろう。

いつしか歌枕に。

冒頭に紹介した、百人一首四十二号の和歌も、もともとは「君をおきてあだし心を我持たば末の松山波越えなん」という歌をもとにしていた。

この後にも「末の松山」は様々な和歌に詠まれることになる。

災害伝承としての性格は薄れ、都から遠く離れたみちのくのロマンの象徴として、あるいは決してあり得ないことの隠喩ーメタファーとして、特に恋心を綴った歌の中でその存在感を増していく。

先人の記憶を活かす

そして再び、一二〇〇年ぶりの大地震、津波を機に、「末の松山」の本来の意味に注目が集まることとなった。

周囲の住宅街が浸水する中、津波は見事に末の松山を目前にしてとまったのだ。


また、同じような津波が来た時に、もう一度同じようなことがおこるかは分からない。

だが、今回は約一二〇〇年前と同じ現象が起こったのだ。


われわれはもっと、先人たちの声に耳を傾ける必要がある。地名に隠された悲劇。言い伝えられた悲しい災害の記憶を完全に失くしてしまうのは何ともったいないことか。

もちろん、以前大丈夫だったから次の災害でも大丈夫ということはない。

そういった災害に遭遇したら、精一杯自分の命を守る行動をとる必要がある。「末の松山」をはじめとする災害伝承はその時の助けになるかもしれない。

参考文献

山宗東『いま、『東北』の歴史を考える』総和社
『百人一首』マール社

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