【卒論】「天明・天保飢饉における民衆の対応」(2/6)

東北学

第一章 先行研究史の整理と本論の課題

 第一節 先行研究史の整理 

 本論文では、近世の飢饉の中でも、天明と天保の二つの飢饉を扱う。一般的に天明の飢饉というと、天明年間(一七八一―一七八九)の諸国大飢饉[1]のことをいう。また同様に、天保の飢饉は、天保四年(一八三三)から同七年にかけての全国的な飢饉[2]のことをいう。ここではさらに限定して、天明飢饉は天明三・四年、天保飢饉は天保四・五年のものを扱うこととする。

まず、天明三・四年の飢饉に関する研究で詳しいのは菊地勇夫の『飢饉の社会史』である。この本には天明飢饉の際の東北各藩の状況が、時期や主題ごとに分けられ藩ごとに紹介されている。第一章は「東風冷雨と日和乞」という題で、主に天明三年の気候について言及している。そこでは盛岡藩と八戸藩の文献史料を用いて、当時の異常気象の復元を試みている。本論文の第二章は、この章の盛岡藩の気象状況の復元を、同様に弘前藩でも行うことが可能であるのかを検証したものである。菊池は、日和乞という天候回復祈禱の儀礼にも着目し、天明三年上半期の異常気象に対しての民衆の認識の甘さがあったことを指摘している。

『飢饉の社会史』では、菊池は飢饉のプロセスを示したうえで、その流れに沿って章立てをしている。第二章では「一揆・騒動と飢饉」という題で、本論文の序章にて引用した飢饉のプロセスの中での騒動の発生時期が、非人や餓死体の発生の前であることを指摘している。ここで、菊池は地逃げを「一家離散であり、紐帯を失った流民化、乞食化そのもの」[3]であると表現している。「プロセス」の示す通り、地逃げとは騒動の一形態でありながら、非人化、乞食化という治安悪化の具体的な事例の一つでもある。菊池は第三章の「飢人と施行小屋」でも地逃げについて言及している。餓死者が出る段階の人々の行動を、東北各藩の文献史料から明らかにしており、特に弘前藩の領民の移動について述べている。本論文はここで紹介した、『飢饉の社会史』の第二章、第三章を参考にしている部分も多い。

第二章・第三章では弘前藩・八戸藩・盛岡藩・秋田藩・仙台藩というように、藩ごとに史料を紹介し、そこから読み取れる、凶作に対する藩の対応や民衆の動きについて述べている。第四章以降でも、飢饉のプロセスに則り、文献史料を用いながら天明三年の凶作から翌四年の飢饉、そして回復への流れの中で見られる現象について言及している。

第四章「盗犯と村の制裁」で治安が悪化した後の村での強盗の発生と、それに対する村の制裁について、第五章「山野河海と救荒」では飢饉時に領主による救済や村落の備蓄が期待できない状況における、山や海などの「共益の場」[4]での食料確保の様子について述べている。

第六章「飯料確保と酒造停止令」では、飢饉下の酒造停止令の意義について、飯以外の用途の米を減らすこと[5]に加え、米価調整の役割もあった[6]と指摘し、第七章「飢饉と疫病」では餓死者が出る時期と時疫の流行時期の相関関係について指摘した。[7]また、祈祷札の存在と施薬などの医療への期待もあったと述べ、中世以前の宗教、呪術的な力への信頼と、医薬、医療への期待が併存していたことを明らかにしている。[8]

第八章「餓死供養の諸相」では、飢饉をくぐり抜け、生きのびた人々が餓死者とどのように向き合っていたのかを、領主による餓死供養と地域社会での餓死供養とで分けて論じている。天明期の地逃げ、他散に関する先行研究はこの『飢饉の社会史』以外にはあまり見られない。

天保期の地逃げ、他散に関する先行研究には、同じく菊池勇夫の論文がいくつか存在する。『近世の飢饉』という著書の第七章「天保の飢饉」では、「藩境を越える飢人」と題して、地逃げの諸相を論じている。この中で、菊池は天保四・五年の地逃げについて、特徴として出羽側を中心に飢人の他国移動が見られたことを指摘している。[9]天明の飢饉では、弘前藩から多量に移動する人々の動きが目立ったが、天保四・五年の飢饉、特に五年に入ってからは、「逆に秋田から津軽へと乞食・非人化した飢人が入り込んでくる動きが目立」[10]つようになると指摘している。また、秋田からは仙台や庄内の方面にも飢人が越境していったという。この記述に続いて、天保七・八年の他散についても詳しく書かれている。他散者の行き先については、『飢饉の社会史』では江戸についての言及が少々あり、あとはすべて奥羽諸国の中での人々の動きに着目して書かれているが、『近世の飢饉』では、江戸の介抱小屋に関する記述に加え、人々が海を渡り、松前に逃亡していたことにも言及している。[11]そして、菊池は天保期の特徴として、立ち返りを考えない地逃げ、他散がそれ以前の天明期などに比べてはるかに多かったと指摘している。江戸では、天明の飢饉後の寛政の改革で流入者が社会問題視され、旧里帰農令が出されていた。天保の改革でも、無宿・野非人の旧里帰農は命じられていた。しかし、それらは一時的に効果があっても、すぐに効果は薄れ、人返しのうまくいかない時代が到来していた。[12]また、北方、松前においても蝦夷地における産業開発が新たな労働力を必要とし、奥羽地域からの移住を促したことも人々の移動が天保以前に比べて多くなった理由としてあげられている。[13]

また菊池は「越境する飢人と領主的対応―天保四・五年の秋田藩と弘前藩―」という論文でも地逃げについて言及している。まず初めに弘前から秋田へと入り込む人々を取りあげている。弘前藩は始め、放任の態度をとったが、後に方針を変え、秋田藩から地逃げ民を引き取り、また、江戸へ向かう途中に秋田で弘前の者を見つけたら、元の居住地へ戻るように伝えよと命令している。[14]

次に、秋田藩の施行小屋の内情を取りあげ、たとえ小屋に入っても、環境は劣悪で、疫病も発生していたと指摘している。そのような状況であれば、家を捨てて向かう先は城下町ではなく、他領になるのは無理もないだろう。

最後に、秋田から各地、主に弘前への領民の移動を取りあげ、弘前から秋田への地逃げの際と同様に、両藩の間での領民の取り扱いに関するやり取りを紹介している。

地逃げに関する先行研究は非常に少なく、菊池勇夫のものしか参考にすることができなかった。打ちこわしや一揆などに関する研究は数多く残されているが、地逃げという現象についてほとんど目が向けられていないのは問題である。今後は飢饉の過程としての地逃げ、さらに、地逃げという現象そのものが一つの大きな問題として扱われることを期待する。


[1] 『国史大辞典』第九巻(吉川弘文館、一九八八年)一〇三一―一〇三二頁。

[2] 前掲『国史大辞典』第九巻一〇二二―一〇二三頁。

[3] 前掲 菊池『飢饉の社会史』六三頁。

[4] 同上一五三頁。

[5] 同上二一三頁。

[6] 同上二一四頁。

[7] 同上二三一頁。

[8] 同上二二六頁。

[9] 前掲菊池『近世の飢饉』二二四頁。

[10] 同上二二四頁。

[11] 同上二二九頁。

[12] 同上二三五頁。

[13] 同上二三五頁。

[14] 菊池勇夫「越境する飢人と領主的対応―天保四・五年の秋田藩と弘前藩―」(『キリスト教文化研究所研究年報:民族と宗教』(四九)宮城学院女子大学キリスト教文化研究所、二〇一六年)五頁。

第二節 本論の課題

本論を書くにあたって、当初は地逃げに関する史料収集から始まった。その中で、『弘前藩庁日記』という弘前藩の公的記録の存在を知り、約二〇〇年の毎日の天候記録が残されていることに大きな感銘を受けた。そこで、本論文の第二章では、そのうちの一二〇年分の天候情報を表に集計し、そのデータを用いたグラフから、天明・天保の飢饉の年の気象状況の特異性を導き出そうと思う。

第三章では、天明三年の弘前藩でおこった民衆の地逃げの様子を、史料をもとに確認していく。そして、第四章では弘前藩における地逃げという関心はそのままに、時期を天保期に移して、同様に民衆の移動の様子を見ていきたい。

地逃げに関する調査は、すでに菊池が行っているが、『飢饉の社会史』は飢饉という大きなテーマを扱った著書であり、地逃げについて論じられた部分はそのわずか一部分にすぎなかった。同じく菊池の著書である『近世の飢饉』も、地逃げについての言及は『飢饉の社会史』と同様である。他の論文については、地逃げについて深堀りしたものもあるが、史料が引用されている箇所はかなり少ない。

そこで本論文ではもう一度、可能な限り史料にあたり、また、可能であればまだ触れられていない史料も用いて、地逃げという現象についてのみ、深く立ち入って論じようと試みるものである。先行研究の隙間に割って入るというよりも、先行研究の整理を中心に、史料を再度検証し、筆者なりの見解を述べることができたら幸いである。そして、地逃げという現象が、飢饉のプロセスの一部分としてではなく、一つの大きな題材として注目されることを期待して、本論がその一端を担うことができるよう、論を進めていきたい。

タイトルとURLをコピーしました