東北における稲作の歴史―赤坂憲雄先生の「東北学」から学ぶ―

東北学

丹念な柳田批判

 赤坂憲雄先生は東北学を提唱したことで知られる民俗学者です。私は大学時代に受けていた授業の参考文献として『東北学/忘れられた東北』を読んだのがきっかけで、赤坂憲雄先生の、そして「東北学」のファンになりました。
 私は小さい頃から東北に縁があり、東北地方が漠然と好きでした。ですが、そんな好きな東北のことをもっと深く知りたいと思うようになったのは、「東北学」に出会ってからです。
 赤坂先生の東北学は一言で言ってしまえば、柳田國男批判、一国民俗学批判の視線です。その目は静かな語り口とは裏腹にとても鋭い。文章を読んでいるとそのような印象を受けます。
 柳田の民俗学は、稲作と、そこに暮らす常民と、祖霊信仰の三つが柱となっています。そして、東北に住む人々もその例外ではなく、みな「瑞穂の国」の住民であり、東北は「瑞穂の国」の一部であるというのです。柳田は『雪国の春』の中で、菅江真澄という江戸時代にみちのくを歩いた人が残した「奥のてぶり」という書をもとに、下北半島にも稲を作り祖霊信仰に篤い人々がいたということを描き出しています。
 それに対して違和感を持ち、批判のまなざしを向けたのが赤坂先生です。東洋文庫版の「奥のてぶり」の、五月十六日に白粥を食べる習俗について書かれている部分の注に「下北半島ではほとんど米を作らなかった」ということが書かれています。それを目にしたところから赤坂先生の柳田批判は始まっています。
 冷害の心配も多い下北半島で稲作が始まったのは、早いところで明治三十年代、遅いところでは大正末だそうです。柳田が見た雪国の稲作は、実はかなり歴史の浅いものだったのです。下北に限らず、東北地方、とりわけ山間部においてはその稲作の歴史は浅いのです。

私はここで柳田民俗学批判をする勇気はもちろんなく、また知識も持ち得ていません。一つの趣味として、歴史や民俗学、文学を楽しめるか方と静かな愉しみを共有したいと思っています。お気を悪くされた柳田ファンの皆様が不快に思われることがありましたら、そっとブラウザバックしていただけると幸いです。

一九九三年の大凶作

 一九九三年は終戦の年を除いて、戦後最悪の凶作の年でした。その被害は東北地方太平洋側、いわゆる「やませ」の影響を受けやすい地域に大きかったそうです。この時の凶作について、赤坂先生は聞き書きの中で、明治や大正生まれの女性が語ったのを聞いています。
「収穫を祝う秋祭りの笛や太鼓のかたわらには、青立ちの稲穂が一面に拡がり、冷たい秋の風に震えていた」
「こんな凶作は生まれて初めてだ」
「昭和九年だってこんなにひどくなかった」
 しかし、関東以南の地方はすでに明治初期には飢饉を克服しているところが多いのです。ここから、日本の穀倉地域のイメージが強い東北地方は、実は稲作に適していないのではないか疑問が浮上してきます。
 

東北の冬に眠る「いくつもの日本」

 東北の冬はとても長いです。早い時期から庭木には雪囲いをして、冬に備えます。私も一年に何度も訪れていますが、時に「冬は家でおとなしく過ごすのが正しい過ごし方だ」と言わんばかりにこんこんと雪が降り続けるのです。
 そこにある景色は関東以南とは全く違うものです。そうなると、そこに生まれる文化や民俗も当然違ったものになるでしょう。ですが、柳田はその冬の山の暮らしから、意識的か無意識的か目を背け、共通する部分に目を向けて「ひとつの日本」を描こうとしました。柳田によれば東北の常民の歴史は、中世から始まったといいます。赤坂先生は中世以前の東北の歴史、『雪国の春』によって隠された雪国の「冬」にこそ、「いくつもの日本」・「いくつもの東北」があると睨み、この「東北学」の歩みを進めていきます。
 

雑穀という主食

 赤坂先生は冬の時期に、岩手県九戸郡山形村にあるちいさな集落、木藤古に降り立ちます。そこで暮らす人々はヒエやアワを作り、炭焼きで生活しているそうです。そんな木藤古の雑穀農耕が稲作に転換したのは高度経済成長期以降のことであったといいます。
 古代律令制の成立以来、米は常に租税体系の中心に置かれてきました。年貢と言えば米。権力者の収入源は常に米が中心だったのです。米は「国家の欲望」そして長いあいだ「唯一の貨幣」でもありました。そして、米以外の穀物は「雑」という文字をかぶり、「雑穀」の名のもとにひとくくりにされたのです。米をヒエラルキーの最上位に置き、ヒエやアワなどを雑穀して下位に位置付ける呼び方は無論、中央政府の支配者層が作り出したものでしょう。
 稲作への憧れはこういったところから出てくるのではないかと赤坂氏は述べています。実際のところ、なぜ雑穀農耕や焼き畑、狩猟採集などの非常に多様な生活を営んでいた村が稲作に転換したのでしょうか。この点については不勉強のため理解がありません。ただ、大衆消費社会が成立して、世の中が豊かになるにつれて、東北のいくつもの村が稲作に踏み切り、その結果凶作に見舞われ、減反政策やコメの自由化に翻弄されたのは事実なのでしょう。
 このように見ていくと、「日本人の主食はコメだ」というのが一面的な見方でしかないということがわかってきます。少なくとも歴史的に見たら、比較的最近まで縄文の系譜に連なる重層的な山の暮らしは、東北を中心に残っていたのでしょう。赤坂先生はその東北の古層に眠る「いくつもの日本」を手さぐりに掘り出していきます。

参考文献

赤坂憲雄『東北学/忘れられた東北』
菊池勇夫『近世の飢饉』

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