【卒論】「天明・天保飢饉における民衆の対応」(6/6)

東北学

終章

地逃げは、本稿で見た天明三・四年、天保四・五年の飢饉に限らず、近世の東北では飢饉の際によく見られる現象であった。碇ヶ関に残る史料(名称不明)には、天保八年の際の地逃げについての記録も残っている。天保八(一八三七)年の正月には秋田への離散が一万人との記録があり、また、同年八月には、十代弘前藩主信順が江戸から戻る途中、秋田で津軽からの流民が御駕籠の前に出て、御救い願いをしたことに対し、全員を碇ヶ関まで連れて行き、「さぞ難儀を致したろう」との御言葉をかけ、一人一歩の銭を与えて、それぞれの村へと帰るように仰せ付けたという。[1]この事例はおそらく藩主の仁政として、残された話だと思われるが、このように、どの飢饉年でも同じように地逃げという現象は起こっていたのである。

本論の研究は、弘前藩を中心に、天明・天保飢饉の際の気象状況と、民衆の飢饉への対応の様子を明らかにしようとしたものであった。まず第一章では、先行研究史の整理と、それを踏まえての本論の課題の提示を行った。第一節の先行研究史整理では、主に菊池勇夫の近世飢饉の研究史を扱った。そこで出てきた地逃げという、飢饉時の民衆の避難行動を、可能な限り民衆の視点から、検証したいというのが本論の目的であった。しかし、民衆視点から地逃げの様子を描いた書物は存在が確認できず、最終的にはやはり領主がどのように地逃げに対応したかが記録された史料を中心に用いるほかなかった。

 第二章では、『弘前藩庁日記』をもとにした、江戸時代の弘前の気象状況の復元を試みた。これは飢饉に関する史料を収集する中で、『弘前藩庁日記』に出会い、江戸時代の天候がほとんど毎日記録されていることに感銘を受けたことがきっかけであった。当初の地逃げについて扱うというテーマからは少し逸れたように思えるが、結果としては、この気象状況の整理を行ったことによって、地逃げの際の民衆の動き出しの時期をどのように見ることができるか、一つの基準となったこともあり、第三・四章にも活用することができた。しかし、やはり藩の公的記録とは言え、江戸時代の日記をもとに、当時の気象状況を復元しようという試みには限界があった。その理由については第二章の三節で示した通りであるのでここでは割愛するが、昔のことを文字のみに頼って解き明かそうという営みの難しさや複雑さ、それ故の求心性も体感することができた。

 第三章では天明三年飢饉の際の民衆の地逃げについて検証した。弘前藩からの地逃げ民が向かったと考えられる地域として、山形県南部の庄内藩と米沢藩、そして、弘前藩から奥羽山脈を越えたところに位置する盛岡藩の例を取りあげた。庄内藩と盛岡藩では、基本的には領外から飢人に対しては排除の姿勢をとったことが、史料から明らかになった。また、米沢藩では追い払うとまではいかなくても、食料の施しをやめるよう沙汰し、やはり領外からの飢人には冷たい対応だったということがわかった。

 第四章では、弘前藩における飢饉の際の地逃げという、扱う題材はそのままに、時期を天明期から天保期へと移して、地逃げに対する藩の対応を検証した。ここでは第三章とは反対に、弘前藩に入ってくる地逃げ民に対する弘前藩の対応を、秋田藩とのやり取りの中に確認した。『弘前藩庁日記』に見える秋田藩とのやり取りを見ると、弘前藩では秋田からの地逃げ民を施行小屋に一時的に保護し、秋田藩から引き取りの要請があった場合には速やかに地逃げ民を返還している。これは、領内に他領からの地逃げ民を置きたくない弘前藩側と、施行小屋の劣悪な環境に自国民を滞在させておくのは気の毒だと感じた秋田藩との利害関係が一致していたものだと考えられる。また、天明飢饉の頃から弘前・秋田両藩の間での領民移動に関するやり取りがあったと見られ、隣藩同士の付き合いという点でも、早い段階で自国からの地逃げ民を引き取るという流れができていたとみることもできるだろう。

 第三章と第四章では時期と地域の違いが出てしまったことが課題であるが、それでも様々なかたちの地逃げへの対応の在り方を確認することができた。第三章で見た庄内藩・米沢藩・盛岡藩と第四章でみた秋田藩の地逃げへの対応に大きな違いが見られるのは、天明・天保の違いではなく、弘前藩との関係性が大きな理由だと見てよいだろう。秋田藩と弘前藩の間には、「ご近所づきあい」のような関係性があったのではないだろうか。

 当初は飢饉の際の民衆の地逃げという行動を、民衆側の視点から明らかにしたいという思いで本論を書き始めたが、十分な史料調査ができず、最終的には先行研究と同じように、領主側の対応を中心に見ることしかできずに終えることとなってしまった。近世東北の民は、どのような思いから地逃げという非常行動をとっていたのか、この点の解明は今後の研究に期したい。

 本論を書き進めながら、自分の中に新たな問題意識が浮かんだので、今後それに取り組む機会が再び訪れること期待して、ここに記しておきたい。

地逃げというキーワードで参考文献を調べても、見つかるのはほとんどが東北地方での事例であり、江戸以西で同様の現象は確認できなかった。地逃げとは、生活地を捨て一時的に自ら非人化し、食料を目指して移動する動きのことを言う。もちろん、そのまま道端で力尽きる危険性は高く、施行小屋などの救済施設に入っても、生き延びるには過酷すぎる現実がそこには待ち受けていた。ただ、凶作・飢饉が沈静化すると、また元の居住地に戻り、以前の生活を再開するという例もあった。

このことから、近世奥羽においては、一次的であれば非人化することが正当化されていたのではないか、という疑問点が浮かんできた。これは差別史にも通ずる視点であると言える。

網野善彦は、著書『西と東の語る日本の歴史』の「文庫版のまえがき」の中で、「被差別部落は、アイヌ、沖縄には存在しない」[2]と言っている。また、「東北学」を提唱している赤坂憲雄も、米と肉という食文化の違いという視点から、西とは異なった差別をめぐる状況が、東北には存在するということを指摘している。[3]

地逃げという、近世奥羽に見られる民衆の非常行動が、今後の飢饉史のみならず、差別史や地域史にも活用できる可能性を指摘して、ここで本論を終えたいと思う。


[1] 斎藤祐一『碇ヶ関村史』青森県市町村史四〇(津軽書房、一九八六年)一〇一頁。尚、史料の名称は明記されておらず、参考文献内では「碇ヶ関の旧記」と記されている。

[2] 網野善彦 『西と東の語る日本の歴史』(講談社、一九九八年)六頁。

[3] 赤坂憲雄『東北学/もう一つの東北』(講談社、二〇一四年)八八―九七頁。

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