民俗学者はすごい!!今に残る方言の面白さ

東北学

卒業論文のための本を読んでいたら面白い話を見つけた。今日は息抜き程度に書いていきたいと思う。

菅江真澄という旅人

江戸時代の後期に、東北地方を旅した菅江真澄という人がいた。おもに青森や秋田を歩いた人だったという。菅江真澄は愛知県豊橋の人なのだが、東北に入るときには松尾芭蕉のように白河から(太平洋側)から入るのではなく、鼠ヶ関(日本海側)から入ったのだという。

理由は浅間山の大噴火による天明の大飢饉で関東が荒れていたため、旅の早い段階で北に行ったかららしい。ちなみに、この時の飢饉では、現在でも全国有数の米どころとして知られる庄内平野は米の出来は良かったという。しかし、北に向かい津軽に入ると、飢饉はひどくなったということが書かれている。菅江真澄は「地逃げ」という人々の移動にも出くわしているようだ。やはり、北東北はそもそも米作りに適していない土地なのだろうか。赤坂憲雄氏の『東北学』を思い出す。

言葉の境界線


これよりなべて庄内と呼ぶ。
こゝより、なにさ、かにさ、言葉のしりへに、さもじつけて、ものいふことはじまりぬ。

『菅江真澄遊覧紀』天明四年九月十日

菅江真澄が鼠ヶ関から庄内に入ると、言葉の語尾に「~さ」と云った具合に、「さ」を付ける表現が出てきたという。方言に遭遇したのだ。現在、首都圏の人が少しバカにした感じで田舎者のまねをするときには、大体「~だべさ」というがこれは典型的な東北弁なのだろう。

民俗学者の目

さて、面白いと思ったのはここからの話だ。民俗学者の宮本常一は、現在の東京の女子にも「~さ」を使う習慣が残っているというのだ。

たしかに、「それでさ~」、「なんとかでさ~」というように語尾に「さ」を付けて話すのはよく聞く。しかし、これが方言の名残なのだろうか。今までそんなことは考えたこともない。

さらに、宮本常一はこの表現は静岡から西に行くと見なくなるというのだ。これまた興味深い。僕は西にあまり言ったことがないので実感がわかないが、だしの味が東西で変わるのと同じで、言葉の語尾にも東西の違いが表れるのだろうか。

そして、このことについては、「結局東京というのは東北関東から来た人が、なお比較的多いことを示している」といっている。これが本当かどうかはわからないが、とても面白い指摘だと思う。

今はあまり流行っていないかもしれないが民俗学というのはとても面白い学問だと思う。何気ない言葉の使い方に着目して考察する。これは多くの知識と経験がないとできないことだ。

今さら民俗学者を目指すわけではないが、広く世の中を見て色々なことが考えられるようにはなりたいと思う。そのためにも、日々の読書と『東北見聞録』での思考の外化は続けていこう。

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