【卒論】「天明・天保飢饉における民衆の対応」(1/6)

東北学

※この記事は大学時代の卒業論文を記事にしたものです。

序文


江戸時代、特に元禄前後には庶民の間で旅という文化が一般的になりつつあった。[1]戦国期に始まった信仰の旅に加えて、現在でいうところのレジャー、観光目的の遊楽の旅行が一般庶民にも行われるようになった。[2]江戸時代に旅をし、その様子を旅行記、紀行文として残した人は数多くいる。今回、この論文を書くにあたって、興味の端となった菅江真澄もそのうちの一人である。

菅江真澄は現在の愛知県豊橋、または岡崎の生まれで、三十歳となった天明三年に郷里を出発している。そこから四十年以上の歳月をかけて、東北地方や蝦夷地を歩き、その記録を詳細なスケッチと共に文章に残した。[3]菅江真澄は旅の序盤の天明四年、東北地方に入る際に、越後を経て庄内に入った。翌五年にはそこから秋田へ北上し、そのまま津軽へと入っている。[4]この出羽地域縦断移動の最中に、菅江真澄は食料を求めて移動する人々に遭遇している。

まだ現在ほど農業技術が発展していなかった前近代には、飢饉が頻繁に発生した。江戸時代だけでみても、享保・天明・天保と三度の大飢饉に見舞われている。それに宝暦の飢饉を加えれば、大きな飢饉は江戸時代に四度起こっていることになる。

近世の飢饉では、日本中の稲作地帯がその被害を被ったが、特に甚大な被害を受けた地域として、東北地方が挙げられる。東北地方の太平洋側には、「ヤマセ」と呼ばれる冷風が吹き付け、その年の作物を不作にする。時代は近代になるが、詩人の宮沢賢治は冷害に悩む農民の苦悩を「サムサノナツハ、オロオロアルキ」と描写している。この「ヤマセ」の影響もあり、東北地方での飢饉で被害が大きいのは多くの場合太平洋側だが、天保四年のように、出羽側の方が被害の大きい場合もあった。[5]また、東北の稲作地帯を襲う冷害は、現代にも起こっている。一九九三年は終戦の一九四五年を除いて戦後最大の不作年となった。

さて、飢饉の定義についてだが、ここでは菊池勇夫の用いた飢饉の定義を参考にしようと思う。菊池は主に東北・北海道を中心に、飢饉史をはじめ、民衆史、生活史を研究している。

菊池は「凶作が契機となり、それに種々の社会的要因が重なって食料の絶対的不足が人為的に作り出され、生命の持続が困難な危機的状況が近世の飢饉」[6]だと述べており、自然的要因が大きい凶作と人為的要因の大きい飢饉とを分けて考える必要があると主張している。また、菊池は飢饉のプロセスを「凶作→一揆・騒動→地逃げ→非人化→強盗の頻発・餓死者の発生→疫病の流行による大量死→回復」[7]と分類している。その一連の流れの中にある地逃げという現象が、菅江真澄が遭遇した人々の集団移動だと考えられる。

本論文は、飢饉の際の特に地逃げという現象について、文献史料に頼りながら各事例を検証し、飢饉時の人々の行動意識や他国逃亡の実態を明らかにしようとするものである。


[1] 児玉幸多他『江戸時代の交通と旅』(雄山閣出版、一九八二年)一二頁。

[2] 前掲児玉幸多他『江戸時代の交通と旅』二六頁。

[3] 菅江真澄の生涯については宮本常一の『菅江真澄』(未来社、一九八〇年)が口語文でまとまっていてわかりやすい。

[4] 前掲宮本常一『菅江真澄』一二頁。

[5] 菊地勇夫『近世の飢饉』(吉川弘文館、一九九七年)二二四頁。

[6] 菊地勇夫『飢饉の社会史』(校倉書房、一九九四年)六八頁。

[7] 前掲菊池『飢饉の社会史』一七頁。

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