風化


記憶には寿命がある。それは、その瞬間に大きく心を揺り動かされた出来事であっても例外ではない。

私はもうすぐ26歳になる。10年前、自分が高校生だった頃の記憶など、ほとんど残っていない。つらかった受験勉強だって、ぼんやりとその記憶の全体像を思い出すくらいで、模試がどんな成績であったか、先生にどんな言葉をかけられたか、自分がなぜその大学を志望したかなんて定かではない。

でも、ごく少数ではあるが、はっきりと覚えている出来事がある。それは私が高校3年生の時。高校の先生が主催してくださった「さくらプロジェクト」という東日本大震災の被災地を訪問する試みで、大川小学校を訪れたときのことだ。大川小学校は震災で多くの児童が亡くなった場所である。広い更地の中にポツンとただ一軒だけ建つその震災遺構は、それまでバスの中で賑やかだった高校生たちを一瞬で無口にさせた。

私が大川小学校を訪れた当時、大川小学校で子どもを亡くされたご遺族の方々は、真相を追い求めて裁判を起こしていた。震災発生時、先生たちは学校の防災マニュアルに沿って避難の誘導を行ったそうだ。その結果、津波から逃げるために学校のすぐ真裏にある小高い丘に逃げるという選択肢は残念ながら取られなかったのである。訪問した当時、私は児童の目線で、自分だったら先生の指示に背いて裏山に逃げれるか考えた。しかし、大人になった今、私の視点は当時とは少し違う。私が教員の立場だったとき、どう判断しただろうかと考えるのだ。サラリーマンとして働いている自分の日常の中で、組織で決められたルールには沿うことが定石である。だから、その場に沿った最適解であっても、ルールに則ていない判断には相応の責任を伴う。未曽有の大震災と大津波への対処を瞬時に求められた当時の先生たちが何を思い考えたのか。あとに残された者たちにとってその判断に後悔があったとしても、決して責められないのではないかとすら思えてしまう。

ただ、瞬時に最適な判断を下すためにできることはある。それは、過去から学ぶことだ。「さくらプロジェクト」は、震災の経験を学び、その学びを周囲に広めることで将来起こりうる災害の被害を少しでも減らすことをテーマにしていた。東北で活動されている多くの”語り部”の方々に教えを請い頂いた知識は、私にとって決して忘れてはいけない記憶である。

今週の金曜日で東日本大震災が起きてから11年が経過する。その間、私は大学を卒業し、社会人になった。世界でも様々なことが発生し、人々の関心は新たな問題に移っていった。震災の記憶の「風化」が危惧される現代ではあるが、今週の金曜日には他の事象を忘れ、「さくらプロジェクト」の活動を通して伺った震災の記憶を思い起こそうと思う。


2022.3.9 
差出人: さくらプロジェクト