【卒論】「天明・天保飢饉における民衆の対応」(3/6)

東北学

第二章 弘前藩における飢饉年の気象状況―江戸後期一二〇年間の古記録から見る―

第一節 調査の方法

『飢饉の社会史』の第一章、「東風冷雨と日和乞」のなかで、菊池勇夫は天明三(一七八三)年の気象を文献史料から復元する作業を試みている。菊池は、資料として、盛岡藩の「雑書」(家老席日記)、八戸藩「御目付日記」といった藩の公的記録を用いている。これらの史料では日付の下に、その日の天候が記されている。菊池は天明三年の四月一日[1]から九月三十日の天気を月ごとに晴・曇・雨の三つに集計した。結論として、古記録を用いて気象を復元する際には古記録を書き残した者の天候の判断基準によって結果が異なることを注意点として指摘したうえで、全体的に低温傾向が出ていること指摘した。[2]

菊池は盛岡藩と八戸藩の公的記録を用いて、天明三年の気象の復元を試みたが、本論ではその手法はそのままに弘前藩の気象の復元を試みる。ただ、菊池の調査によって、記録者の天候の判断基準(どの程度の降雨があった場合に雨と記録するか)によっては、晴天率が異様に高くなってしまうという問題点も浮かび上がった。本来ならば、複数の個人の日記などを用いて慎重に比較することで、一番正確に当時の気象状況を復元できると思われる。しかし、個人の日記には、「日記」と称しても日付が必ずしもない、期間が短いなどの問題があり、また、記録者個人の視点で書かれるため、その内容が主観的であることが、個人の日記を用いるデメリットとしてあげられる。本論では時間的な制約から、参照できる資料の数には限りがある。そのため、菊地が行ったのと同様に、『弘前藩庁日記』という弘前藩の公的記録を資料として用いることにした。藩の公的記録も最終的には個人が記録することにはなるが、読み手が想定されている書物であること(『弘前藩庁日記』の場合は藩主を読み手として想定していた)[3]、また、藩庁日記のための組織も作成されていたことから、客観性はある程度担保されており、また記録も民間個人の日記よりは正確なものとなりやすいと判断した。
 ただ、資料として用いる『弘前藩庁日記』は、弘前市立弘前図書館に正本と写本が保存されているが、関東で史料を所蔵している図書館及び史料館はない。そのため、この天候記録の集計には、福眞吉美による『弘前藩庁日記ひろひよみ Vol.2―弘前市立弘前図書館所蔵 気象・災害等の記述を中心に (<CDーROM>)』(以下、本文中では『ひろひよみ』と表記)というデータベースを利用した。[4]

菊地の天候調査では天明三年のみの天候を集計して、その晴天率の低さから飢饉年の気象状況を論じたが、ここでは一部の手法を踏襲しつつも、当該年だけでなく、一七四一年から一八六〇年までの、百二十年分の四月一日から九月三十日の天気に関する記述をそれぞれ月ごとに集計し、中長期的な視点から、天明三・四年、天保四・五年の気象がどれだけ寒冷、日射不足であったのかを見ていきたい。

尚、『弘前藩庁日記』の天気の記録には、晴れを表す記述にもいくつかの種類が見られ、「快晴」や「陰晴」、または、単に「晴」と書かれている箇所もある。この「快晴」と「陰晴」の違いは記録者の裁量によるものであろう。ここでは、これらを細かく集計するよりも、菊地が行ったのと同様に晴・曇・雨の三段階に数え直して集計する手法を選択した。また、「快晴」と書いてある条にも、その下に「小雨」などと書かれていることがある。このような場合には、悪い方(この場合は「小雨」なので雨)に入れて集計することとした。[5]また、日記本文に雨が何時頃に降り始めたのか、止んだのかが記載されている箇所がある。この場合は日中に晴れていると判断できる日は晴に数え入れている。具体的には、辰から未の刻の間の天候を集計した。そのため、雨の降りはじめの時刻と降りやんだ時刻が記録されている場合には、辰から未の刻の間に雨が降っている場合にのみ、「雨」に算入した。よって、「丑刻から雨、卯刻までに止む」と言った場合には、「雨」とはしていない。また、「雷」についても、「雨」と明記されておらず、単に「雷鳴」などと書かれている場合には、「雨」ではなく、「晴」・もしくは「曇」に算入した。

 第二節 復元した天候記録にみる飢饉年の気候状況

まずは天明三(一七八三)年の晴天率から見ていきたい。【グラフ一】を見ると、天明三年の年平均晴天率は、それまでのところで見ると、約四〇年間では過去最低の晴天率であることがわかる。次に【グラフ二―七】の各月の晴天率の変化をみると、前後の年と比べて突出しているわけではないが、七月・九月の晴天率がともに43%と、低くなっていることがわかる。今回のように、作物の生育状況に関わる天候を考察する場合には田植え以降の七月から九月の天候が重要である。天明三年ではその七月と九月の晴天率が低かった。ただ、八月は平均で晴天率が高くなる傾向があるとはいえ、飢饉年ではない年と同様の晴天率となった。このように、必ずしも集計した晴天率が、飢饉の年に低くなるわけではないという課題はある。このことについては、次の第三節で考察する。

次に、天保年間の晴天率を見ていきたい。【グラフ一】を見ると、年平均晴天率は、天保四・五年を過ぎたあたりから、五年間は低い状況が続いていることがわかる。特に、天保七・八・九年の晴天率の低さは明らかである。実際、この三年間、とくに天保七・九年は大凶作の年であった。天保七年は同三年の「凶作」に収まらない、「大凶作」であり、同九年は七年のそれを上回る悪天候で、天明飢饉の「餓鬼道」を彷彿とさせるものであったという。[6]

さらに、天保四・五年の晴天率があまり低くない点も、飢饉の記録と一致していると言って良い。

【史料一】

  四月八日も風寒ク九日十日ハ雨風東ひかたニて苗も赤ク成候。壱束余りの処十二三日の頃朝霜ふり由候。然共苗ニ代り無之候。夫より六七日も日和続き如向ニも東風たば風の類ニて寒ク御座候。四月廿日過苗弐束半御座候。三月十八日鰺ヶ沢七ツ石町廿件焼失致候。扨当年ニ至て火の用心悪ク所々出火不少事ニ候。弘前三ノ御丸御貯籾蔵卅弐間蔵焼失、擢米ニ合致御済の所米四千表焼失致、誠古来珍敷ク候。町在用心向厳重ニ御座候。田植ハ四月晦日ハ当村漆原二日ハ一ツ森〈以下二・三字□(不)□(明)〉当年ハ苗不足ニ候。足本遠ク植候。上磯辺ハ元よりの事春立寒ク籾生も不宜候故ニ候。五月ニ成候所日和続ニて野菜も不宜候。五月下旬ニても雨一切ふらす渇水田困入候。既ニ是迄四月廿四五日よりてり続頓て三十日ニ及候。関金井沢苗不足ニ付皆々馬ニて買いニ参候。四月廿五日ニ雨少々降候て夫より日てりニ候。五月廿二日ニ少しふりニ損田此辺も番水ニて漸々懸候へ共新田ハ植兼候所も有、又苗無之植兼候所も有、然所五月廿六日ニ一日の雨ニて大分畑等も宜一統の悦ニ候。此節も米卅七匁致候。茄苗掃底ニ候。此節専たばこ苗付申候。六月朔日ニも半雨ふり二日ハ天気是にて当分水は不足ニ無之候。然所三日四日の大雨五日迄の所大洪水ニ候。流木ハ勿論田植所々痛石砂押大然村より姥袋迄、然所鬼袋ハ去年の堀替ニて少も痛所無之候。先年も六月五六日の出水又当年も不思議ニ候。然所金沢藤十郎伯父流木ニ参、一ノ沢より帰りかけつれニ劣り不参二三日尋候。[7] 

「永宝日記」によると、天保四(一八三三)年は、四月二五日に雨が少し降ったあと、一か月の「日てり」が続き、渇水騒ぎになったという。その後天候は荒れたが、七月下旬頃からは再び日和が続き、早稲に関しては「相応の作勝」であったという。[8]各月の晴天率【グラフ二~七】を見ても、天保四年の八月の晴天率は、同七・九年の八月の晴天率に比べて高く、天候が急激に回復し、稲の生育に十分な量の日光が供給されたことが想像できる。このことも「永宝日記」の記述に一致している。

 第三節 飢饉の性質と古記録を用いた気象状況復元の複雑性

前節で見た通り、古記録の天気に関する記述から当時の気象状況を復元するのは、部分的には可能であったが、当時の飢饉の発生年と、集計したデータの晴天率の低い部分との完全な相関関係は見られなかった。そこで、この節では、どの様な要因が気象研究を困難たらしめているのかを検討し、筆者なりの見解を述べたい。

⒜飢饉の複雑性

 序章で確認した通りだが、本論では飢饉という言葉の定義を、菊池が示した「凶作が契機となり、それに種々の社会的要因が重なって食料の絶対的不足が人為的に作り出され、生命の持続が困難な危機的状況」[9]をそのまま踏襲している。自然的要因の大きい凶作と人為的要因の大きい飢饉とを分けて考えなければいけない。凶作が直ちに飢饉につながるのではないのだ。

 今回扱った天明三年の弘前藩の場合でも、詳細は第三章第一節で確認するが、藩の政策によって、領内の米の絶対量が不足してしまったという事件があった。幕藩体制というシステムの中、また、新田開発による米価の低落の影響下では致し方なかった部分はあったにせよ、やはり凶作を単なる凶作で済ませずに、餓死者の出る飢饉へと導いてしまったのが為政者であったことは否定できない。

 また飢饉は一年の凶作・失政ではおきない。前年、場合によっては前々年からの食料の不足が形として現れるのが飢饉である。天明三年のように、人々が一冬を越せずに餓死者が続出してしまうというのは、それ以前の年からの藩領内の食料の貯蓄が十分になされていないことが原因である場合が多い。また、天候不良にもかかわらず、平年と同じペースで領外へ廻米してしまうことも、食料不足の大きな原因の一つであった。

前年からの食料の貯蓄量も考慮に入れる必要があるということは、飢饉年を中心に前後数年の気候も考えなければならない。天明飢饉の場合を見てみると、飢饉が酷かったのは天明三年・四年だが、天明二年からすでに気候は例年通りではなかったということがわかる。天明二年の四月・五月には、「冷風」・「冷方」・「冷気」・「水霜」といった、低温を思わせる記述が散見される。結局天明二年は大規模な飢饉にはならなかったが、この年の凶作が次年の飢饉の要因の一つとなった可能性は考えられる。

⒝「天気」以外の気象的要因

近世の東北地方を襲った飢饉のほとんどは、今日「ヤマセ」と呼ばれている東風による冷害から発生したものである。ここで大きな問題が生じる。今回資料として用いた『弘前藩庁日記』には、「晴」・「曇」・「雨」などのいわゆる「天気」は、雨の降りはじめた時刻、止んだ時刻まで、かなり詳細に記録されている。だがしかし、風を古記録からの情報のみを用いて、定量的に数値化するという作業は非常に困難であった。中には、前節で扱ったように、飢饉の年の春から夏にかけての時期に「東風」や「冷方」という記述がみられる場合があるが、どの程度の風がどのくらいの期間吹き続けたのかを史料から読み取ることは不可能であった。また、気温も同様に、日記からの情報を頼りに数値化することは困難であった。ただ、「天気」に関する記述にしか頼れない中で、不完全ではあったものの、時期によっては晴天率と飢饉年の記録に一定の相関関係が見られた理由はなぜだろうか。これは単なる偶然ではなく、多くの人が実体験から予想できるように、気温はある程度はその「天気」に比例するものだからだと考える。欠点はあったが、全く持ってでたらめなデータでの検証ではなかったことを主張しておきたい。

⒞気象観測・記録機関の信頼性

 『弘前藩庁日記』は、本章第一節でも説明した通り、読み手が想定されている書物であった。また、藩には「日記役」という、藩庁日記のための組織も作成されていた。[10]そのため、記述内容の客観性はある程度担保されていると考えてよい。ただ、江戸時代の日記ということもあり、天候に関する記述をすべて信用するべきではないだろう。まず、考慮しなければいけないのは、『弘前藩庁日記』の弘前に関する記述は二〇〇年以上も続けて記録・保存されているという点である。当然、その間に記録者は何人も変わることになる。そのため、どの基準で晴・曇・雨とするかはその時の記録者の裁量によるところがどうしても出てきてしまう。実際、今回集計した一六〇年間でも初めの数年間は「晴」の中にも「快晴」と「陰晴」の記述があったが、ある時期からはほとんど見られなくなった。このように、時代の流れに伴って、天候観察・記録の際の規則は細かく変わっていったものと考えられる。また、同時期の記述でも、一日中同じ人物が天候を観察し、記録することはできない。福眞は夜間の天候等について、「門番・鐘撞堂などの常時勤務の部署からの情報も用いた」[11]のではないかと推測している。

 これら三つの要因を挙げたが、これら以外にも様々な要因は考えられる。飢饉とはそれだけ様々な要因が重なって発生するのだ。本論文ではあまり重きを置かなかったが、寛延二(一七四九)年の飢饉では、気候よりも猪による獣害が主な原因であったという。[12]

ただ、やはり稲の生育には天候が密接に関係している。そのため、晴天率と実際の飢饉記録の間には一定の相関関係が見られた。文字として記録された気候を復元することは、完全ではなかったとはいえ、ある程度の信頼性はあると考えてよいだろう。


[1] 現在用いられている太陽暦では五月一日にあたる。

[2] 前掲菊池『飢饉の社会史』二六頁。

[3] 福眞吉美『弘前藩庁日記ひろひよみ Vol.2―弘前市立弘前図書館所蔵 気象・災害等の記述を中心に (<CDーROM>)』(北方新社、二〇一四年)解説より。日記の内容を幕府に見せることはなかったという。

[4] 『弘前藩庁日記ひろひよみ Vol.2―弘前市立弘前図書館所蔵 気象・災害等の記述を中心に (<CDーROM>)』は弘前に在住の元気象台の職員である福眞吉美が弘前市立図書館に通い、『弘前藩庁日記』を現代語訳し、そのうち天気と災害に関する記述をExcelデータ及びPDFデータにまとめたものである。

[5] これらの集計の際のきまりは原則菊池が行ったものと合わせるように努力した。

[6] 前掲菊池『近世の飢饉』一九八頁。

[7] 『永宝日記・万覚帳』みちのく双書第三五集(青森県文化財保護協会、一九八二年)五八頁。同書の序文によると、「永宝日記」は八幡宮宮司という社家によって書かれた手記である。

[8] 前掲菊池『近世の飢饉』一九六頁。

[9] 前掲菊地『飢饉の社会史』(校倉書房,一九九四年)六八頁

[10] 中野達哉「弘前藩庁日記と日記役」(『国文学研究資料館紀要.アーカイブズ研究篇』(九)人間文化研究機構国文学研究資料館、二〇一三年)一―二五頁。

[11] 前掲福眞「解説」三頁。

[12] 前掲菊池『近世の飢饉』一一九頁。

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