ルックバック

SNSで偶然見かけた、エモい作画の映画予告動画。6月ころから上映されていたルックバックというその映画は、秋田県出身の漫画家さんの読み切り作品の映像化らしい。予告で見た田園風景に惹かれ、上映終了間際の8月に映画館に見に行った。

原作のストーリーも知らないまま一日の一番遅い時間の映画館に入り、シアターが暗くなると、4コマ漫画のシーンから物語が始まった。主人公の藤野歩は小学校の学年新聞の4コマ漫画を担当しており、自分の画力に自信を持っている。しかし、ある時不登校の京本という同級生が書いた同じく学年新聞の4コマ漫画の作画に度肝を抜かれることになる。

ここで、藤野の世界は大きく揺れ、自分より絵が上手な同級生の存在に打ちひしがれる。しかし、そこから猛練習をし、とにかく描き続ける。この映画の中には、机に向かって絵を描き続ける登場人物の姿がとても美しく描かれているのが印象的。

自分の右に出る者はいないだろうという、小さな世界での驕り。手の届かないところにある才能を目の当たりにした時の妬み。

それでも、「○○が得意で人よりもできる」という自分を守るために努力を続ける。

自分を置いて友人が何かに夢中になっている姿を見る寂しさ。一向に詰まらない差をはっきりと目の当たりにした瞬間の諦め。

気恥ずかしくなるような、他の人には見せたくない、人間の弱い部分を見せられて、物語の前半で心が裸にされた気分だった。


やがて、主人公は4コマ漫画を描くのをやめてごく普通の小学生として小学校の卒業式を迎える。卒業の日、先生から京本の家に卒業証書を届けに行くように頼まれる。仕方なく訪問した京本の家で、「藤野先生は漫画の天才です…!」と言われ、これが再び漫画を描き始めるきっかけとなる。

雨の帰り道の、藤野の小躍りしたくなるのを抑えきれない気持ちが表現された早春の畦道のシーンは圧巻だった。これまた人には見られたくないような、褒められて舞い上がったときの気持ちが映像で見事に表現されている。

漫画が原作の映画ということもあり、すべてのシーンに「もとは一枚一枚の絵なんだな」ということを実感できる、動きの温かさがある。前半で心を裸にされてからは、1時間ほどの映画が終わるまでが本当にあっという間だった。



藤野と京本が一緒に一つの作品を描き、漫画家としてキャリアを築いていく。やがて、つないだ手が少しずつ離れていくシーンが暗示するように、京本は藤野に頼らずに生きたいと考え始める。互いに別々の道で、心の中でお互いの背中を見ながら描き続ける。

事件の後の京本の部屋の前のシーンはいろいろな解釈ができそうだ。パラレルワールドもどうとらえるかは観る人次第といったところか。

ルックバックとはどういう意味なんだろう。「京本も私の背中を見て成長するんだな」というセリフから、京本も、藤野も、お互いに背中(バック)を見ていた(ルック)のではないかと思う。そして、過去を振り返る(ルックバック)という意味もあるのかもしれない。

「じゃあ、藤野ちゃんはなんで描いてるの?」

この答えは、藤野が漫画を読みながら振り返った過去にあった。藤野は再び休載した漫画を描き始める。

過去を振り返ることは進歩がないからよくないことか?それは違う気がする。守りたいものが自分の後ろにあって、それが今の自分を成り立たせているのなら、大切に背負いながら、時々眺めて次の一歩の動力源にするのは素晴らしいことではないか。



バタフライエフェクトもこの映画のテーマの一つだろう。たった一つの出来事がその後を大きく変えてしまう可能性もある。ただ、現実世界にパラレルはない。どの選択がどこにつながっているかの答え合わせはできない。

自分が選べなかった選択肢、選ばなかった選択肢は、きっと他の誰かが選んで「これで正解だったのか」と今ごろ勝手に悩んでいる。そして、今現在、自分が勝手に悩んでいることも、他の人が選びたくて仕方がなかった選択肢かもしれない。

目の前の一瞬一瞬を緊張感をもって楽しみつつ、自分の一挙手一投足が世界に与える影響をときに過大評価し、ときに過小評価しながら生きていこう。


エンディングの音楽に合わせて藤野がひたすら漫画を描き続ける丸い背中を見る静かな時間。エンドロールで立ち上がる人は誰一人いなかった。

「なんで描いてるの?」

好きで、自分ができると思って、たった一人でもそれを喜んでくれたり応援してくれる人がいるなら、頑張ることに理由なんて必要なくて、時々湧き出てくる「なんで努力するの?」は疲れてやめてしまいたい自分の紛れもない本音かもしれないけど、少し前の自分が信じた生き方を諦める理由には絶対にならない。

山形県

前の記事

田舎暮らし