【卒論】「天明・天保飢饉における民衆の対応」(5/6)

東北学

第四章 天保四・五年飢饉に見る地逃げと民衆の対応―弘前藩と秋田藩を例に―

第一節 天保四・五年飢饉の津軽・秋田地方の概況

 本章では、天保四・五年飢饉の際の民衆の動きと、藩の対応がどのようなものだったのかを見ていく。ここでは、前章に引き続き弘前藩と、その隣藩の秋田藩の間の民衆の移動について、詳しく見ていきたい。まず当節では、天保四・五年の飢饉がどのような状況であったのかを確認したい。

 第二章でも確認したが、天保四・五年飢饉の際の天候は通常の飢饉年と比べて少々特殊であった。東北地方の冷害は、多くの場合「ヤマセ」と呼ばれる東風による影響で、陸奥側がダメージを受ける。しかし、天保四年は陸奥側よりも、出羽側の農作物に被害が出た。「ヤマセ」の影響が少ないとされる出羽側でも、冷雨、または大雨・洪水に悩まされ、凶作となった。この天保四年の大飢饉は、出羽側諸国では「巳年のケカチ」として、長く記憶された。[1]

特に秋田藩では、「天保四年冬から翌五年春夏にかけて、おそらくは同藩の近世史上最大の飢饉惨事」[2]というほどの状況となった。

 しかし、食料に困った民衆の動きは、凶作が酷かった秋田藩ではなく弘前藩の方が早かった。『田畑仕入日記手間永福町』に、「金木組今泉辺其外、大人他散之由、秋田去・当年も凶作ニ付仙台江参候よし、(筆者後略)」(八月一九日条)[3]と記録されているように、弘前藩の人々は、八月中旬には地逃げ・他散の動きを見せていたことがわかる。後述するが、弘前藩で秋田からの地逃げの人々の取り扱いが問題になるのは、翌五年の春である。ここでは弘前藩での出来事が書かれた史料しか、人々の移動の様子を検証する準備がないのだが、確認できる限りでは半年近くも弘前藩の人々の方が早く動いていることがわかる。本論の第二章で示した通り、天保四年は結果的には、大飢饉とはならなかった。しかし、弘前藩の民衆は早々に地逃げを開始している。これは菊池の指摘している通り、天明の飢饉の際の経験が働いていると考えられる。[4]『田畑仕入日記手間永福町』では、人々は主に仙台に向かったと書かれているが、ここで津軽から秋田への人々の移動に関する史料も確認しておこう。

 【史料八】
  一、御評定所より七ツ過家来隠明寺波負出、左之通
    覚
今年御領内違作、近国迚も当作不熟之趣相聞、飢人乞食躰之者御領内へ数多入込候様相聞候間、御境口其外小道等厳重ニ遂吟味、堅入置間敷候、六十六部・虚無僧・供養巡礼、惣して執行者・歌舞伎役者・大神楽・為見物・薬売・香具売之類、御領内へ入置候義前以御制禁ニ候間、此節猶も厳ニ可致吟味候、御朱印所持之者格別、たとへ本寺証文・添状持参致候而も堅入置申間敷候、若紛入候もの見当候ハヽ、早速其国元へ相返し可申事[5]

 史料は「渋江和光日記」の天保四年八月廿三日条である。『田畑仕入日記手間永福町』では弘前の人々の地逃げの開始が記録されているのは八月一九日条であるから、時期的に考えてもここに書かれている「飢人乞食躰之者」は津軽地方から流入してきた人々だと考えてよいだろう。

 だが、右に見たような、津軽から秋田への人々の動きはすぐに逆転する。前述した通り、天保四年の凶作は秋田の方がダメージは大きかった。そのため、一旦秋田へと地逃げした津軽民はすぐに弘前領に戻ってきた。それを知らずに、秋田への移動を続けた人もいたことはわかっているが[6]、秋田の状態を噂で聞いた多くの人々は、領内にとどまるか、別の方角へと移動したと考えられる。

 津軽から秋田への人々の流入の動きは、次第に秋田から津軽への流入へと変わる。

【史料九】
一、右ハ扨置、午年春より秋田人多く入込所々ニて死亡多、在々ニても相救候得共不及病死、弘前も右同断ニ付死((非))人小屋懸り壱人壱合宛之由、大釜粥煮施行候得共、時疫大方煩日々死人如山有之、白道院寺内へ穴穿右寺取扱ニて日々穴へ埋候由、秋田三ヶ年凶作ニて喰物尽キ死亡多、久保田抔も大小屋懸り施行有之、是も死亡如此有之由、[7]
 (後略)

 【史料九】は『田畑仕入日記手間永福町』の記事である。午年(天保五年)の春から多くの「秋田人」が入り込み、ところどころでは死亡する者も多く、救ったとしても、病死してしまう者が後を絶たなかった。弘前でもやはり事態は同様であり、一人一合の割合で大釜の粥を施したが、大半の人が疫病を煩い、日々、死人は山のように増え、白道院の寺内に拵えた穴へ埋めたという。これらの記述から見ると、秋田からの弘前領への地逃げの件数は、かなりの数だったと考えてよい。

 天保四・五年では、【史料八】のように、津軽から秋田への地逃げもあったが、時間が経つにつれて、その動きは逆になった。具体的には、天保五年の「春」からはすでに弘前藩は秋田からの流民に悩まされていた。第三章では、弘前藩からの地逃げの民衆に対して、盛岡藩・庄内藩・米沢藩がどのような対応をとったのかを資料を用いて検証した。史料に限りはあるものの、取り上げた各藩は、基本的には他領からの非人に対しては排除の姿勢で臨んでいた。

 次節では、第二章とは逆に、弘前藩が他藩からの非人の流入に対してどのような対応をとったのかを見ていきたい。

第二節 弘前藩と秋田藩の地逃げへの対応

 ここでは実際に『弘前藩庁日記』[8]を用いて、秋田と弘前藩の地逃げ民に対する対応を検証したい。前節で見た、秋田から弘前へと入り込んだ飢人に対して、藩はどのように対応したのか。

ここからは、史料の用意がないので、菊池の論文「越境する飢人と領主的対応―天保四・五年の秋田藩と弘前藩」をもとに、天保五年春の弘前藩と秋田藩の飢人ついてのやり取りを確認する。

秋田藩から津軽へと流入した飢人が問題になるのは一月下旬からである。一月二〇日条には、秋田領大館から「袖乞」が入ってきているのが確認されたため、和徳町の名主に取り扱いを命じていることが書かれている。二月になると、「早瀬野村脇道」を抜けて秋田から弘前領に入ってくる「親子」がおり、「食料等」を与え、「送返」したという事例もでてくる。(天保五年二月九日条)二月末の時点で、弘前城下にいる「秋田袖乞之者とも」は「男女弐拾四人」で「土手和徳両宿屋」へと預け入れられた。(二月二九日条)また、翌日にはその他の「秋田表」よりの「袖乞躰之者」を弘前に残らず集めるという方針が出されている。(三月一日条)

このように、飢人を施設に収容している様子を見ると、第三章で見た庄内藩や米沢藩の地逃げ民への対応と比較して、弘前藩の秋田飢人の扱いは、ずいぶんと良いものに思える。しかし、施行小屋の治安は悪く、他国からの飢人の救済というよりも、自国の治安維持的な意味合いが強かったということは、菊池が『飢饉の社会史』の第三章で指摘している通りである。

そのような不遇を見かねてか、秋田藩の役人は、弘前城下に集められている秋田領の者を引き取りたいと申し出た。弘前藩側も城下にいるものは直ちに引き渡すとの返事を出し、引き渡しの際の規則も箇条書きで定められた。

(一)引き渡し前に蓑笠の用意のない者には蓑笠を与える
(二)引き渡しのさい町目付・名主に取り扱い向きを申し付ける
(三)出立の日は飯を与えるとともに「途中用意」の「ひねり飯」を持たせる
(四)途中不時の病人または足痛みのさいには郡奉行の命によって通り筋の村々に人馬を指し出させる
(五)迎えに来た者に金一〇〇疋を与える
(六)碇ヶ関止宿のさいの賄方および関所出のさいの「ひねり」用意は町奉行(弘前)より碇ヶ関町奉行まで申し通す                            
『弘前藩庁日記』天保五年三月一日条
「越境する飢人と領主的対応―天保四・五年の秋田藩と弘前藩」一七―一八頁より引用して作成。  

 このように、明文化された規則をもとに、両藩の間では、飢人の取り扱いに関するやり取りがされていた。本論では触れていないが、天明三年には弘前から秋田へ入り込んだ飢人の扱いについてのやり取りもされていた。また、本章で取りあげた天保四・五年の飢饉でも、前述した天保四年夏の津軽から秋田への地逃げの民衆についても同じように、両藩の間での飢人の取り扱いに関するやり取りがされていたという。今回は該当する史料がないため、これ以上詳しく踏み入ることはできないが、隣藩同士で、地逃げの人々の身元が明らかである場合には、このように領主間で藩境を越えてのやり取りがあったということわかる。隣藩同士で飢人の責任が明らかになっている以上、「自国民」が他国で収容されているのを見て見ぬ振りをするわけにはいかないという事情も、そこにはあったのかもしれない。


[1] 前掲菊池『近世の飢饉』一九八頁。

[2] 前掲菊池「越境する飢人と領主的対応―天保四・五年の秋田藩と弘前藩―」三頁。

[3] 『五所川原市史』史料編二下巻(五所川原市、一九九六年)二八〇頁。史料は「田畑仕入日記手間永福町」の天保四年八月一九日条である。「田畑仕入日記手間永福町」は主に平山家の農業経営について書かれている書物である。

[4] 前掲菊池『近世の飢饉』二二四頁。

[5] 『渋江和光日記』第九巻(秋田県、二〇〇二年)八七頁。同書の冒頭部分によると「渋江和光日記」は渋江堅治和光の日記である。

[6] 前掲菊池「越境する飢人と領主的対応―天保四・五年の秋田藩と弘前藩」三頁―六頁。

[7] 前掲『五所川原市史』史料編二下巻二九〇頁、二九一頁―二九二頁。

[8] 以降、『弘前藩庁日記』を本文に引用する際には、日記の記載年月日のみを文末に記す。『弘前藩庁日記』には江戸の事を記録した「江戸日記」と弘前の事を記録した「御国日記」があるが、ここではすべて「御国日記」を指している。

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