第三章 天明三年飢饉に見る地逃げと民衆の対応―弘前藩と東北諸藩を例に―
第一節 弘前藩における地逃げの発生前夜
天明三年・四年の飢饉をもとに、まずは飢饉のメカニズムとその中での地逃げの位置づけを見ていきたい。本論の第一章で確認した通り、菊池勇夫は「凶作が契機となり、それに種々の社会的要因が重なって食料の絶対的不足が人為的に作り出され、生命の持続が困難な危機的状況が近世の飢饉」[1]というように、飢饉を定義づけている。ここで注目すべきなのは、飢饉と凶作は分けて考えるべきであり、作物が不作である凶作を契機に、人為的な側面も合わさって餓死者が出る、またはそれに近い状況が飢饉だということである。
ここでは天明三・四年の弘前藩を例に、凶作からどのように飢饉へと事態が大きくなっていたのかを確認し、その中で地逃げの位置づけを確認しようと思う。
天明三年の七月、弘前藩では一揆・騒動が立て続けに発生した。二十日青森、二十二日に鰺ヶ沢、二十七日には木造、そして三十日に深浦で騒動が起こった。中でも、青森騒動が中心で、その時に町々の住民が作成した、七か条からなる「願い口上書」の内容が、飢饉が人災であることを指摘しており、これまでも注目されてきた。[2]
(1)一か年分の町中飯米分を貯えて置くこと、領内に売るために、すでに回船に積み込んである米を引き揚げ、 領主の取った年貢米も都合して貯え置くこと (2)弘前・青森間の米留番所を廃止して、米売買を自由にすること (3)これまで一人であった町年寄を二人にすること (4)諸役人の青森出張の費用を、町方の負担としないこと (5)無益の出費である目明しを廃止すること (6)会所費用が年々増加し難儀であるから名主会所を廃止すること (7)近年重くした家屋敷売買のさいの税金を引き下げること[3] |
右の七つの要求が、弘前藩に向けて出された。この中で最も注目すべき点は(1)の上方や江戸への廻米を停止して、領内に貯えて置くことを求めた部分だ。廻米の差し止め要求は七月二十二日の鰺ヶ沢の騒動でも同じようになされており、同三十日の深浦の騒動でも、蔵米を津出しようとした問屋が襲われている。[4]藩は当時の経済の仕組みを覆す要求を却下したが、青森の船頭たちは民衆の声に賛同した。
それでも藩は厳重な警戒の下で、七〇〇〇俵を積んだ船を青森から出帆させた。しかし、最終的には藩は要求を受け入れ、廻米中止を知らせる追船を出したが、不運にも八月中旬に米七〇〇〇俵を乗せた船は大風雨に遭って難破した。このような人災的な側面に、さらに自然的要因の不運が重なり、領内の米は不足していった。
江戸時代の経済の仕組みの上では、弘前藩だけでなくどの藩も、江戸や上方に領内で収穫された米を廻米して、換金の後に藩の収入とすることが必要不可欠であった。そのため、前年から続いて凶作の傾向にあった天明三(一七八三)年でも、弘前藩では、端境期でも大阪・江戸に向けた廻米が行われていた。
この年の七月に立て続けに発生した一揆・打ちこわしなどの騒動は、八月以降には全く見られなくなる。菊池の表現を借りれば、一揆などの騒動が起こるのは、「その社会がまだ健全な健康状態を保っているという証」であり、「飢饉への奈落の道を必死に回避しようとする闘い」[5]であった。民衆のことを第一に考えない為政者への、社会的な抵抗ともとれる騒動が終息を迎えると、次に始まるのは強盗などの共同体の倫理を無視した行動や、乞食に出るなどの非人的な動きである。この段階で、人々が他領へと食料を求めて移動する地逃げも出現する。
これが菊池の示した「飢饉のプロセス」[6]でいうところの、「一揆・騒動」→「地逃げ」の段階である。そしてこのフェーズの入れ替わりが、ちょうど、凶作から本格的な飢饉へと突入していく端境期だと言える。
第二節 弘前藩における地逃げの発生と流民への他藩の対応
本稿で主に取り上げる地逃げの前には、前節でみたように、凶作下でも民衆のことを第一に考えない藩の政策に対する社会的な抵抗ともとれる、一揆や打ちこわしなどの騒動が発生する。この段階では、菊池が騒動の事を「飢饉状態への暗転を回避しようとする民衆社会の正常な活力」と評価しているように、餓死へと続く道にはまだ足を踏み入れていない状況である。だが、いよいよ本格的に地域内の食糧不足が顕在化し、騒動が収まった後に、地逃げが発生する。弘前藩における領民の地逃げについて、『平山日記』には次のような記述が残されている。
【史料二】
亦日卯辰飢饉之事
此年春立雪消方茂おそからされ共、初春より八月中旬迄東風吹き続キ苗ノ生立後レ半夏過迄田植る方もあり、六月至ル共東風ニテ寒ク何れも綿入着しけり、漸々六月廿二日の朝より昼まで東風なく晴天の処昼過より亦東風吹例日の如く同廿八日少し温にて袷看躰也、其余日ハ幾日綿入なり、然共諸人凶作なるべしとは少茂心付ず、米直段之宜にまかせ米所持之者ハ米留所を拵へ両浜エ売下ケ海辺ニ而隠し津出を専らにせし間、一向米之貯無之皆手ぶりなり、亦人民多く日雇取多にまかせ、四番草、五番草迄を七月下旬迄取にかゝり候間、稲弥増に若がり一向もよふしのきざしなし、漸々七月廿七日より出穂なれ共中々以降敢取ざる処に八月十二日、十三日両日の大東風ニ而何かは以たまるべき処え八月十五日之夜霜ふり十六日之朝は山通り抔は橋之上白く相見へたり、同十八日の朝至つてさむく綿入重ねにてもこらえ兼候体なり、依而藤崎より上在、平賀之庄六ヶ組、田舎舘組之内川向黒石御領抔ハ実のはさまたる所もあれ共、中通り下在外之浜通りハ一向青立にて彼岸に至れ共、出ぬ稲かぢなり、さるニ依而俄に騒立八月十八日より外か浜の者並金木組其外新田ノ者衣服道具味噌等迄安々に売払雑具牛馬を捨て我も〳と秋田路へ行事引も切られず、皆々幼少之子を負へ或ハ妊婦ハ腹をかゝえて行き盲人の手を引行もあり、十八日より廿三日迄之間行事不限昼夜、暮に及は神社に篝火を焚き止宿すること夥敷、誠に下在々もか程人民のある事にやと興もさめたるばかりなり、老たるは子に捨られ明き屋に泣倒れ、幼ハ江壑に投捨られ泣きさけぶ有る樣、目もあてられぬ事共也、八月廿日頃より東風不吹かずして温になり、春不咲し九輪草石竹抔の花開け四月上旬の頃のやうにてしかも晴天続き故共騒にて我も〳と明荷を附抔して乗懸にて秋田路へ越る者もあり、しかも此年秋田仙台より最上亦本庄、亀田、庄内領抔上作之由ニ而他国へ越候者ハ凶年後迄無恙いつれも本所〳へ帰りけれども老人或ハ足弱き者ハ多クハ大館辺より戻る故右之者共弥難儀致候、元来家財売払手振之事なれば中途にさまよい死するもの幾人と云ふ事なし、亦何者の云出けん、仙台領に新田有て右之所へ行けば能と云いはやすにより我も〳と十月下旬より仙台路へ行ける処同国も大凶作之事なれば是以埓明ず雪路をさまよい帰り路道に死する者、幾千人と言事をしらず、雪まぶれの死人の上を刎越通りけることうたてかりし事共也[7]
まず、始めの部分には、天明三(1873)年の気候が寒冷だったことが強調して書かれている。此の年の春、雪が消えるのが遅かった。初春より八月中旬まで東風[8]が吹き、稲の苗が育つのが遅れ、半夏[9]が過ぎても田植えをするものもあった。六月に至っても東風で寒く、綿の入った衣服を着ていた。ただ、その直後で日記の筆者は「人々は凶作になることをあまり気にかけず、米の値段が良いのを良いことに、例年通りに領内から米を出し、その結果米の貯えはなくなってしまった」というように、やはり飢饉の人災的側面も指摘している。本論第二章第三節で触れたが、低温傾向があった前年(天明二年)が結局は飢饉とはならなったことで、為政者に油断があったこともかんがえられる。
そこから日記の内容は、「七月末に出穂したが、収穫まではできないでいたところに、八月十二日・十三日に大東風が吹き、さらに十五日の夜には霜が降り、翌朝、橋の上が白く見えた」というように、再び冷夏の様子が細かく記されている。この日記によると、その直後に民衆の地逃げが始まっている。日記には「(八月)十八日から外ヶ浜、金木、新田の者が衣服や日用品、味噌などを安く売り払い、牛馬を捨てて、皆秋田を目指した。人々は皆、幼い子を背中に負い、また妊婦はその腹を抱えて移動し、盲目の人の手を引いて歩く者もあった」というように、人々の移動の様子が詳細に記録されている。、さらに、「老人は子に捨てられ、空き家に泣き倒れ、幼い子は谷に投げ捨てられ泣き叫ぶ」という非常事態の陰惨な有様も克明に記述され、それに対して日記の筆者は「目もあてられぬ事」と嘆いている。最後には、地逃げしていった人々の向かった先について書かれている。右にあるように、秋田に向かったものが多かったようだが、此の年、比較的凶作の程度がひどくなかった本庄・亀田・庄内へ向かった者は、凶作後は本所へ戻ったという。ただ、老人や足の悪い者は途中でさまよい命を落とすこともあった。また、どこからともなく出た「仙台に新田があり、そこに行けば良いという」という流言を聞き、仙台を目指したが、仙台も同様に凶作で、帰り道の雪路で路頭に迷い命を落としたという事例も興味深い。
言うまでもなく、天明三年に発生した地逃げは弘前藩に限った現象ではないのだが、人々の移動に関する詳細な記述がなされた史料の準備がないため、地逃げ発生時の様子については以上とする。次に、地逃げをした人々を他藩がどのように扱ったのかを見ていきたい。ここからは、先に引用した『平山日記』にもその地名が登場した庄内地方やその隣藩である米沢藩、さらに弘前藩の近隣藩である盛岡藩の史料をもとに、各藩の、越境した他領者への対応を見ていきたい。
⒜庄内藩
まずは、先に引用した『平山日記』にもその地名が登場し、弘前を出た人々が目指したという庄内藩の、他藩から越境してくる飢人への対応について見ていきたい。
【史料三】
庄内の事
一、庄内御領は作も七、八分の出来にて、近境に無之上作に候。其上直段米も宜故、常には上方へ廻米出候へとも、此年は不残、南津軽、仙台、米沢へ相廻候。庄内にて極上の直と申は金壹分に壹斗四五升迄致候よし。居なからの賣米いたし夥鋪入金の由に相聞候。家中、町家、郷村飢饉を不知、芝居或は角力等在之、賑々鋪くらし候よし。依之隣国の袖乞、群集泊候處、御領内に他邦者ともさし置間鋪由にて、袖乞の者とも拂候由。其内には時疫にて、路頭に臥し死候由、又倒れ居候者も在之候處、御経堂の御隠居願の上三染に三捨間位の小屋を掛け、病人ともを入置、粥を煮、服薬迠施行在之、七月末迠療治被加候故、本服いたし命助り候ものとも不少儀に候。兼ては此寺福寺にも無之にて、右施行に付、一己の衣類は勿論、納所道心者迄の袈裟衣手道具また質物に入、施行候由。遖今時の出家には珍敷事に付、生佛と崇敬致候由。[10]
【史料三】は天明五年七月、会津藩士田村三省によって著述された「孫謀録」である。著者田村三省は天明四年に「津川へ出役した際、三年の凶作の実情と四年の米の運送事情の調査から得た経験とを以て五年に執筆」[11]した。右の史料によると、庄内藩では米の出来は悪くなかったという。例年は他藩と同様に、領内で収穫した米を上方へ廻米していたが、この年は近隣の津軽・仙台・米沢に廻していた。その他にも、「家中、町家、郷村飢饉をしらず」といった記述から、東北の多くの地域が凶作・飢饉に苦しんだ天明三年でも、庄内藩は比較的余裕があったということが読み取れる。さらに読み進めていくと、庄内藩では、隣国からの「袖乞」は追い払ったということがわかる。
ただ、後半には御経堂の隠居が、三梁に三十間くらいの小屋を設け、病人に対して薬や粥を施しているということが書かれている。その当時の出家には珍しい「生仏」として、崇められたのだという。橘南谿は「東遊記」に「鶴岡慈悲」と題して、同じような民間の飢人救済者の話を紹介していることから、同じ人物の事を指しているのかは分からないが、このような事例があったということは本当だろう。[12]
⒝米沢藩
次に、庄内藩の近隣である米沢藩について書かれた史料を見ていきたい。
【史料四】
天明三年八月廿九日、当年不作ニ付他国之願人・非人等江一切勧進出間敷候段、於二役所一以二口達一命レ之
口達手控
他国之願人・非人等江一切勧進出間敷之段年々御触も有レ之候得共不レ得レ止樣相聞候 然処当年不作ニ相聞候得ハ前々被二仰出一を相守、他領者江決而勧進出間敷候 追々ヶ樣之儀相響候時ハ自然与願人・非人も不二入来一事ニ茂可二相成一欤、何れにしても先條御掟と申、かゝる年並ニ候間町内切猶又堅可二申合一候 不心得無レ之ため此旨申達候事
八月廿九日
〆[13]
米沢藩は弘前から見ると鶴岡よりもさらに南に位置し、距離も遠くなるため、史料に書かれている「他国之願人・非人」が必ずしも、【史料二】の『平山日記』で見た、弘前藩からの越境者だということはできない。しかし、「天明三年八月廿九日」という日付から考えると、時期としては非常に近く、また、「非人等」が弘前から出た人々でないとしても、同じ時期の東北地方で発生した地逃げについての記事であるため、検証の価値があると考えた。
さて、【史料四】についてだが、引用文は「御代々御式目」の天明三年八月二十九日に書かれた、領外の非人・願人に対する扱いについて命じたものである。
例年、米沢藩では他国からの「非人・願人」に対して、「勧進」を出さないように沙汰していたが、天明三年にはその御触れをさらに厳しくすることが定められている。米沢藩でもまた、庄内藩と同様に、他国からの「非人・願人」に対しては排除の姿勢で臨んだことがうかがえる。ただ、史料から読み取れる情報の上で、庄内藩と米沢藩の飢人に対する対応については、両藩の間には相違点がある。それは、領内へ入ってきた「袖乞」を追い払ったという庄内藩に対して、米沢藩では「非人・願人」に対しての「勧進」の施しをひかえるよう命じてはいるが、追い払うことまではしていないということだ。その後の米沢藩内の様子は史料からではよくわからないが、おそらく、庄内藩と比べると、他国の飢人は多かったのではないだろうか。
ここで、米沢藩の他国よりの飢人に対する対応について一つ付け加えておきたい。【史料四】の箇所から、さらに「御代々御式目」を読み進めていくと、翌天明四年の七月に、他国から来た者が道に倒れて死んだ場合の扱いについての取り決めが書かれている。
【史料五】
天明四年七月八日、往来行倒者生国不二相知一候得は道之辺に埋置札建置、不二相知一候時は、夫迄ニ成行候処、此儀不便ニ被二思召一以来之心得被レ命レ之
覚
郡奉行中
町奉行中
往来行倒之者生国茂不二相知一候得は、街道之辺ニ埋置札建置、詰り尋来候ものも無レ之時は夫迄に成行候処、左候而は不便成儀ニ被二思召一候 依レ之以来之儀は所縁も不二相知一者ハ其処最寄之寺院江葬、住寺軽廻向致候様被二仰出一候
但、住寺江軽き施物、町は町奉行、在は代官ニ而取量可二差出一候、行倒之者是迄ハ其所ニ札建置候得共、是又以来之儀ハ大町札之辻江相建置、其日より十日限尋来候者も無レ之時は右建札取仕廻可レ申候
但、右取仕抹之儀評判之上可レ被二申出一候
右之通此度改而被二仰出一候間、以来無二間違一可レ被二相心得一候事
天明四 七月
覚
寺社奉行
往来行倒之もの生国も不二相知一候へハ是迄ハ街道之辺に埋置候処、左候而ハ不便之儀ニ被二思召一候間、以来ハ所縁茂無レ之ものハ其所最寄之寺院江葬、住寺軽き致二回向一候様被二仰出一候間、此旨兼而寺院江承知居、其節ニ至り何彼異乱無レ之取置候様可レ被二申渡一候事
天明四 七月
〆[14]
先に引用した【史料四】では、他国からの「非人・願人」に対して、施しを与えない方針を示していた。【史料五】には、その、「非人・願人」がそのまま領内で「行倒」れてしまった際の扱いについての取り決めが書かれている。
郡奉行・町奉行・寺社奉行に対しての命がそれぞれ書かれている。内容は以下の通りだ。「行き倒れてしまった者のうち、故郷が不明で、訪ねてくるもの(引き取り人のことか)のない者については、以前までは、街道のあたりに埋め、札を建てるのみであったが、それでは気の毒なので、以降はどこの誰なのかわからない死体については、最寄りの寺で葬り、回向を行うこと」が命じられている。衛生的な問題も考慮してのことと思われるが、「非人・願人」が死んだ場合には、さすがに見て見ぬ振りは出来なかったのである。
⒞盛岡藩
最後に、弘前藩の近隣である、盛岡藩の史料を見ていきたい。
【史料六】
一、頃日に至御隣国より非人躰の者御城下江數人罷越候内、手廻引連候者も有之。端々候徘徊罷有、疑敷者も有之趣相聞得候に付、遂吟味送遣候様其筋被仰付候聞、各御支配所限に遂吟味他所者参居候はゝ、右の趣を以御取斗可被成候。可罷成程は御城下江屆不申、送歸候様可被成候。若叉當年柄御領内よりも右躰の者罷出可申哉。銘々御支配所限遂吟味右躰の者罷出不申樣取斗可申旨仰付候條、端々迄も被遂吟味右躰の者無之樣其筋へ具に可被仰付候。尤於御城下見當遂吟味向方御代官所の者の由出所人元慥に申出候はゝ本所へ送遣候様被仰付候。各御代官所の者非人躰にて罷通者見懸候はゝ、右の通本所へ送屆候様御取斗可被成候。巳上[15]
【資料七】
八月廿日、被仰出左之通
頃日ニ至、御隣国より非人躰之者數人奥筋より參候付、送返候之樣遂吟味斗可申旨、御役人共え申渡之、[16]
右に引用した【史料六】は、江戸時代の盛岡の和算家であった横川良助の記した「飢饉考」である。内容は以下の通りである。隣国からの非人が城下に数人紛れ込んでおり、周囲には手を引いて歩く者もいる。あちらこちらを徘徊し、疑わしいものもあると聞くので、吟味して国元に送還する指示が取り決められている。また、各支配所に対しても、他領の者は同様に国元へ送還するよう取り締まりを強化することが決められている。
【史料七】は「御家被仰出」の一部で、【史料六】と同様に、他領からの非人の国元送返を命ずる旨が書かれている。
先に引用した『平山日記』では盛岡方面に人々が移動したという記述はなかったが、これらの「非人」は時期的に考えて弘前藩からのものと考えることができる。盛岡藩は、先の【史料三】で見た庄内藩と同様に、他領から境界を越えて入ってきた非人に対しては、排除の姿勢をとったということが、この二つの史料からわかる。
ここまで、三つの藩の他領からの地逃げに対する対応を見てきた。庄内藩と盛岡藩では、基本的には領外からの飢人に対して、追い払うという対応をとっていたことがわかる。米沢藩では、追い払うというまではいかずとも、食料や物の施しを与えないよう、取り締まりを厳しくしていたことがわかる。言うまでもなく、三藩に共通するのは、地逃げの人々に対して、排除の姿勢で対応したということである。近世の各藩では、領内の非人に対しては施行小屋などの施設を活用して、名目上は保護する方針であったが、領外からの飢人に対しては冷たい対応だったと言っていいだろう。[17]
ここまで、限られた史料ではあるが、天明三年飢饉の際の地逃げについて、動き出す民衆の様子と逃亡先の藩の対応を見てきた。
次章では、飢饉時の民衆の地逃げという問題関心はそのままに、扱う時期を天保四・五年に移して、本章とはまた少し違った形での地逃げへの対応を見ていきたい。
[1] 菊地勇夫『飢饉の社会史』(校倉書房,一九九四)六十八頁
[2] 「青森騒動」に関しては、前掲菊池『飢饉の社会史』第二章、及び、松本四郎「天明の飢饉と一揆」(『日本民衆の歴史』四 三省堂、一九七四年)を参考にしている。
[3] 前掲松本「天明の飢饉と一揆」二九〇―二九一頁より引用、作成。
[4] 前掲菊池『飢饉の社会史』六十頁。
[5] 前掲菊池『飢饉の社会史』七二頁。
[6] 序章でも引用しているが、菊地は著書『飢饉の社会史』の中で、飢饉のプロセスとして、「凶作→一揆・騒動→地逃げ→非人化→強盗の頻発・餓死者の発生→疫病の流行による大量死→回復」を示した。
[7] 『平山日記』みちのく双書第二二集(青森県文化財保護協会、一九六七年)四一五頁―四一六頁。
[8] 一般に「ヤマセ」と呼ばれる風のことだと思われる。
[9] 夏至から数えて一一日目。昔の農家ではこの日までに田植えを済ませ、どんなに天候不順でもこの日の後には田植えをしないという習慣があった。
[10] 森嘉兵衛、谷川健一編『日本庶民生活史料集成』第七巻(三一書房、一九七〇年)三八〇頁。
[11] 前掲森嘉兵衛、谷川健一編『日本庶民生活史料集成』三五七頁より引用。
[12] 前掲『飢饉の社会史』98
[13] 『米沢市史編集資料』第十六号(米沢市史編さん委員会、一九八五年)四五頁。返り点については、原典のまま。米沢藩で公布された法令などは「御代々御式目」として整理されている。
[14] 前掲『米沢市史編集資料』第十六号、五〇―五一頁。
[15]前掲『日本庶民生活史料集成』第七巻、五〇八頁。天明三年八月の記事。
[16] 藩法研究会編『藩法集9盛岡藩上』(創文社、一九七〇年)六〇七頁。
[17] 施行小屋については、前掲菊池『飢饉の社会史』の第三章「飢人と施行小屋」に詳しく書かれている。そこでは、領内の飢人に対しての対応も、必ずしも飢人の保護だけが施行小屋設置の目的ではなく、隔離という、治安維持の目的も持ち合わせていたことが指摘されている。