【被災地訪問】2015年度のさくらプロジェクト

さくらプロジェクト

僕にとっての3.11

当時は中学1年生

2011年3月11日。東北を起こった大地震。
今までで感じたことのない揺れに、校舎四階の教室はパニック状態だった。

中学一年生も終わりに差し掛かったある日のこと、午後の英語の授業中だった。

すぐに校庭に避難してから一度大きな余震に怯えたものの、その後間もなく帰宅となった。


家に帰り、津波に飲まれていく車の映像を生中継で見た。
「逃げて!」と叫んだがその声が届くはずもなく、無情にも町は茶色い波に飲み込まれていく




その週は、大雨でも雪でも絶対に中止にならない野球チームの練習が活動自粛になった。
世の中はどこもかしこも自粛。



ただ、未曾有の大災害から半年、一年と時がたつと、自然と地震の話題も少なくなってくる。


僕自身も中学二年生、三年生、高校入学と日常をこなすようになっていた。

もちろん、忘れていたわけではない。もともと祖母が福島にいたこともあり、東北には親近感を覚えていた。

だが、あの日テレビで見たぐちゃぐちゃの町がその後どうなったのかなんて、考えることもしなかった。

高校1年の冬

生活が野球中心で回る生活が続いていた。そんな高校生活の中のある日、サッカー部が被災地訪問に行ったという知らせを聞いた。

その時、無理だとはわかりつつも「野球部も行きたい」、「野球部の活動がなければ連れて行ってもらえたのに」と感じたのを覚えている。

「先を越された!」という悔しさのような不純な感情もあった気がする。

さくらプロジェクト

部活も引退し、晴れて応募

上にも書いた通り、さくらプロジェクトはもともと、母校のサッカー部の先生の意志で一部活から始まり、一般生徒も巻き込む形で毎年被災地に訪問する活動を続けている。

時は流れ高校3年生の後期、その年も同じように東北に行く活動の参加希望者の話がホームルームの時間にアナウンスされた。

待ってました!とばかりに、希望の紙を提出する。


日程は3月末なので、その頃の自分の進路がどうなっているのかも分からなかったが、とりあえず入試は終わっているはずなので、と親とも話をして申し込みを済ませた。

事前活動

無事に大学受験も終わり、高校を卒業した3月。

もう着るはずのない制服を着て、高校に行く。事前に2回、事前学習が行われたのだ。

内容はほとんど覚えていないが、そこにいた人は覚えている

それから数年間お世話になる、一つ上の先輩二人と、オーラが半端ない後輩に初めて会ったのはそのときだった。

※その先輩のうちの一人とは、のちに二人で福島の沿岸部にも行っている。

1日目

多賀城高校との交流

いよいよ活動当日。

仙台駅まで新幹線で移動した後は、観光バスに乗って移動する。向かう先は多賀城高校だ。

通称「多高生(たこうせい)」とグループディスカッションなどを通じて震災への理解を深めていく。

街歩き

多賀城高校が町のいたるところに津波の高さを示すステッカーを貼っている。

待ちを歩くと、歩道の端の方にはまだ海のものと思われる砂が残っていたのが印象に残っている。

ステッカーのおかげで、身長を越える津波が来たことがわかる。
歩道橋の柱にも。
多賀城イオン

多賀城のイオンの立体駐車場から街並みを見下ろす。
そして、同じ場所で撮影された震災当日の右映像をiPadで見る。

2016年3月26日
2011年3月11日
クロスロードゲーム

災害の状況下では、様々な判断を強いられる。時にはそれが、想像するだけで胸が痛むジレンマとなる場合もある。

クロスロードゲーム(分かれ道の意)はあえてそう言った状況を設定し、災害時の対応を自らの対応としてとらえて、異なる価値観の存在に気付くことが目的のアクティビティだ。

質問①

あなたは食糧担当の職員です。被災から数時間、避難所には3000人の人が避難しているとの確かな情報が得られた。現時点で確保できた食糧は2000食。以降の見通しは今のところない。

まずは2000食を配る?(YES)
3000食が確保されるまでは配らない?(NO)

質問②

地震が起きたとき、あなたは海から10㎞離れた職場にいました。
あなたには母(89歳)と、妻(病院の看護師)、大学生の子どもがいます。

大学生の子どもは上京しているため無事です。また、妻は病院にいるため、無事ではありますが、自宅に戻ることはできません。母だけが海から5㎞離れた自宅にいる状況です。

母は足が不自由なため1人で避難することができません。今から助けに行くと、自分も津波にのまれてしまう可能性があります。

あなたは母を助けに行く?(YES)
助けに行かない?(NO)

こういった答えの出ない2択を考えることによって、災害を当事者意識を持って学ぶことができる。

頭も使うし、心も疲れる活動だった。
津波被災地「まち歩き」案内 – 宮城県多賀城高等学校 (myswan.ed.jp)
※多賀城高校にはこの年の翌年に災害科学科が設置された。

七ヶ浜国際村

七ヶ浜国際村という施設の高台から町を見下ろし、津波が来た当時の様子を聞いた。

2011年3月11日の津波の際には奥に見えるコンビナートから煙が上がったという。
七ヶ浜国際村で見た、漂着物によるオブジェ

2日目

朝早く起きて、ホテルの近くにあった竹駒神社に参拝に行ったのを覚えている。

名取市

名取市内の歩道橋の上に昇って、そこから同じ視点で撮影された津波の映像を見た。前日のイオンでの体験と同じような感覚。関東にいてもニュースなどで津波の映像を見ることはあるが、実際に現地で映像を見ると、感じるものは違ってくる。


ゆりあげ朝市にお邪魔して、櫻井理事長のお話を聞いた。鬼気迫る話し口調が強く印象に残っている。 やはり、実際に震災を体験した人の話を聞くべきだと感じた。

高校で何気なく行われていた避難訓練に強い疑問を感じた。



その後、朝市の広場で歌をうたったのを覚えている。アンコールをもらったりと、意外にも盛り上がってびっくりした。


小塚原南集会所というところでは地域の方と話をすることができた。そこでも歌を歌った。

三浦七海さんという、名取市出身の女性と会ったのもそこだった。

今もFacebookでつながっているが連絡はとれていない。。。

中浜小学校

まだ冬と言っていい、東北の3月末の夕暮れ時。中浜小学校を訪問した。被災地滞在2日目の終わりに差し掛かる時間だ。疲労と緊張とで、気分が落ち込んでいたのを覚えている。

いや、中浜小学校という場所の持つ雰囲気かもしれない。ごうごうと風の音が聞こえる。周囲には何もない。うるさいが静かだ。風の音以外には何も聞こえない。

地震発生当時、ここではいつものように小学生が学んでいた。津波が来るとわかった時、校長先生は避難所へ向かうのではなく、学校内にとどまることを決断したのだという。

学校の中で一番高い、屋根裏へ全員が避難した。結果的に津波は間一髪屋根の少し下で止まったそうだ。津波の最高到達点には青いプレートが貼られていた。改めてその高さに驚く。

屋根を見ると、端の方は水に浸かったあとが残っている。文字通りの間一髪だったのだろう。

駐車場では全国から寄せられたメッセージの書かれた黄色いハンカチが海辺の強風になびいていた。

震災遺構をあるく① 山元町震災遺構 中浜小学校 「命を守り抜いた校舎が伝える  あの日のこと、未来への備え」 | ARTICLES | Kappo(仙台闊歩) (machico.mu)

2日目まででだいぶ心がぐわんぐわん動かされた。夜には宿舎で学びの場があったが、正直あまり記憶にない。もっともっと、感たことを話したり書いたりしたかった。誰かに話さずにはいられなかった。

3日目

千年希望の丘

歴史書の「日本三代実録」には、貞観十一(八六九)年の五月二十六日に「多賀城地震」という地震が記録されている。 東日本大震災は千年に一度の大地震だ。

千年希望の丘は次の千年に向けて 「千年先まで子どもたちが笑顔で幸せに暮らせるよう に」と願いを込めて作られた公園だ。

丘は震災で出たガレキで作られている

この時には、その場所に記念植樹をした。

千年に一度の大津波が来た時に、少しでも波を食い止めることができるように。

次に訪れたときに、少しでも木が成長しているように。

願いを込めて、植樹作業をしていく。スコップで穴を掘っているとすぐに汗ばんできた。

やはり、勇気を出して活動に参加してよかったと心から思う瞬間だった。

仙台空港

仙台空港も津波のまれた場所として、テレビで何度も映像が流れた場所だ。

一階部分が波に飲み込まれる映像は誰もが一度は見たことがあるのではないか。

2016年3月28日、活動で訪れた時にはすでに綺麗になっていた。

入り口にはカリヨンの鐘という鐘があり、メンバーがハンドベルの要領で演奏した。

この場所も津波の中だったと考えると…

途中で早退、不完全燃焼で今後へと続く。

この日、大学のオリエンテーションがあった僕はみんなよりも数時間早く東京に戻ることになっていた。

場所は覚えていないが、消防車が止まっていた気がする。そこで高校一年生の時の担任の先生と、そして三年間お世話になった学年主任の先生と固く握手をして、宮城県を後にした。




それから一人で新幹線に乗った後も、家に帰った後も、活動に参加して感じたことが頭の中から離れない。

実際にその場に行って、震災を経験した人の想いを聞いて現地から持って帰ってきたやるせなさは僕一人の心の中で消化しきれるはずがなかった。

今後どのようにすれば、「人のそばで」「求められる活動を」「継続的に行う」ことができるかを、ひたすらに考える日々が始まったのだ。

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